風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
雨の匂いがする
ひと雨が来た。そのひと雨を境に、新涼という言葉はこれかと思うほどの涼しい風が吹き始めた。朝の気温は13度までに下がり、ひと雨がこれほどまでに季節が変えうるものなのかと驚くばかり。今年の夏はとにかく暑かった。景気低迷の上に山火事の大量発生で、スペイン経済の行く手には暗雲がのし掛かっている。連日TVには山火事の映像が映し出され、紅蓮の炎が松の木から立ち上がっているのを見ると、底知れぬ脅威を覚える。燃え尽きた山は一面の銀灰色で、生命のかけらもない感じだ。その上に容赦なく太陽が照りつけている。地球は滅びて行くんだろうな、としみじみ想ってしまう。タバコの投げ捨て、放火…、結局はすべての生き物にとっての天敵が人間であるように、地球にとっての天敵も人類だという事なのだ。



今年の夏は本当によく働いた。パリから帰ってきてから、ノン・ストップもいいところ。例年になく続いた連日の暑さと、バルセロナ特有の湿度の中、熱中症に怯えながらも、何とか乗り切れそうなところまできた。脳みそまでぼやけそうな中、夏の夜更かしの楽しみであるミステリーを読む暇もなかった。しかも新しい本も届かないし。で、久しぶりに読み返したのが「カドフェル修道士シリーズ」 中世イギリスのカトリック・ベネディクト派修道士のこのシリーズは、謎解きというよりはカドフェル修道士が醸し出す人間模様に面白味がある。手元に新しい本がない時に読み返せるシリーズがあることは、心安い友人に再会した様でほっとするものだ。私のそういうシリーズは、長らく池波正太郎の「剣客商売」「鬼平犯科帳」、それと「源氏物語」の原文といった辺りだったのだが、一昨年「修道士カドフェル」に出会い、どうにか全作を揃え終えてみると、このシリーズも手放せないものになっていた。



これは「Brother Cadfael−修道士カドフェル」という名の薔薇。修道士というには、まるで芍薬か牡丹のような華やぎがある。このシリーズの主人公は12世紀のイングランド、夢を抱き第一次十字軍に従軍、その聖なる夢の醜さに傷つきもし、船乗りとして実世間の裏も表も知り尽くした果てに、ウェールズとの国境にあるシュールズベリにある、ベネディクト派大修道院で修道の誓いを立てた修道士カドフェル。事件そのものの複雑さよりも、歴史物語的な面白さと、実にこの初老のカドフェル修道士の味わいが熟成したワインの芳香のように、心に沁みてくるのだ。こういう風に歳を取り、静かな生活に入るのも悪くないと思ってしまう。何よりもまず捨て去ることが第一歩なのである。

ベネディクト会はカトリック教会最古の修道会で、「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたてた修道士が、修道院において労働と祈りの共同生活を、厳しい規律の下でおくる。フランスのモン・サン・ミッシェルや、バルセロナのモンセラットもベネディクト会で、黒い僧服の修道士が「祈り、かつ働け」という戒律に則った修行を行っている。このシリーズの舞台となっている12世紀は、イギリスは未だ統一されてはおらず、国教会も生まれておらず、カトリック教会は民衆は言うも及ばす、国王に対しても、まだ大きな力を持っていた。この後にイギリスは統一され、カトリックに対する迫害が起きる。ガイ・フォークス事件もその流れの中に起きたわけだ。

このシリーズの中に、貴族の囲い女でありながら、長い年月を心置きない妻のように忠実に男に仕えていた女性が、事件に巻き込まれたと知ると全てを捨てて修道院に入るという、ちょっと魅力的な登場人物が出てくる。シリーズの中でも重要な脇役になる女性だが、面白いのは彼女の場合「神への奉仕、祈り」という修道生活に入るにあたって最も重要な点は後回しだという事だ。修道院というのは俗世から逃げ込む場所、そして才覚があればのし上がれる階級世界でもあったことが解る。彼女にとって修道院というのは自らの才覚を活かす場所だという事になる。

カドフェルは静かな生活を望んで俗世を捨てたが、その人間を読み取るという彼の叡智が、様々な事件を嗅ぎ取り謎を解いていく。必ず若い男女の恋模様が絡んでいるのだが、女性たちがみんな凛々しくも逞しい。英国女性のなんと気概ある事よ、と感心する。青年たちは自らの価値を未だ知らず無防備で、そして娘たちは自らの価値を高めるために奮闘しているのだ。これのTVシリーズがあったそうだが、観てみたいものだ。イギリスの緑あふれる風景は私の憧れ。昔、ベアトリス・ポッターのTVシリーズの田園風景も美しかったが、あの村に行ったら本当にそういう風景がちゃんと残っていて、とても嬉しかった覚えがある。イギリス人の頑固さと謙虚さは、自然を保存する大いなる鍵なのかも知れない。余分なものを持ち込まず、古いものを大切にする、たぶんそれに尽きるのだろう。



イギリスの児童文学が大好きだった私は、「ピーター・ラビット」で具合の悪い時に飲まされるカモミール・ティーってどんな味なんだろう、とか「床下の小人たち」のように小人が自分の家に借り暮らしをしていてくれたら、とか… 同世代の女の子たちと遊んでも愉しくも嬉しくもなかった私は、空想の世界でいろんなことを学んだ。アメリカの児童文学も随分読んだし、「大草原の小さな家」は本もTVシリーズも大好きだったけど、アメリカのはどちらかというと冒険もの的な面が多く、ファンタジーには欠けていたので、やはりイギリスの作家の方が好みに合っていた。ファンタジーとミステリーは、私の中では何処か通じるものがあって、文学の中では軽んじられやすい分野ではあるが、人間を知ること、人間の中の哀しみと希望が垣間見れ、そこが魅力となっている。「指輪物語」のような壮大な物語も個々の登場人物の奥行きがあればこそであり、そして双方共に生きること、生き抜くことを謳っている。ミステリーは殺人事件を扱うが、それは生き抜くことの究極の形として扱われている気がする。



しかし、こんなウサギたちがいる、と思って暮らせば、森を歩くのも愉しい。私は子供の頃、蕗の葉や草むらがカサコソ揺れるたびに、コロボックルがいるかも、と空想して日々を生き伸びていた。擬人化された動物たちや小人、妖精…、空想の世界を構築する重要なアイテムたち。「指輪物語」の壮大な世界でなくとも、あらゆる処に幻想曲は聴こえるものなのだ。我が家のダルたちがウサギを狩りだすたびに、「ピーター・ラビット」や「ウォータシップ・ダウンのウサギたち」に思いを馳せる私としては、イギリス人がウサギを食べない、食べたがらないのも理解できる。

今日は久しぶりの雨。ほぼ3週間ぶりだ。森は乾燥し、草は枯れたままだ。この時期、時折夢のように思い出す風景がある。月明りで見た一面のコスモス畑だ。まだ恋人だった夫とテニスをしに行った折に見た風景だと記憶しているのだが、あれは何処だったのだろう。そういえばとっぷりと暮れた相模の山で見た山桜や、日暮れて雪がちらつく中を下山した那須の山の熊笹の道や、時に甦る懐かしい風景たち。心細さを分かち合うようにして歩いた道というのは、生涯忘れえないものなのかも知れない。コスモスはメキシコ原産で、18世紀にマドリッドに渡ったそうだが、こちらではあまり見かけないのが不思議だ。フランスでは庭に少し見かけたけれど。



大花野に迷い込んでみたい。もう一度、月光の下で。あの青く冴え冴えと澄み渡ったコスモスの大花野こそが、懐かしくも、怖ろしくもある、私の心象風景だ。

| るな | 本の愉しみ | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) | -
とりあえず「猫の町」行き列車に乗ってみるか?
日本からの荷物が送りにくくなった。税関で足止めを食い、煩雑な手続きが必要になったらしく、一時帰国した際に、本を段ボール箱でどんと送るという事が困難だ。必然持って帰ってくる本は、重量と読み応えとを鑑み、さらに食料品と天秤に掛けられることになる。極力単行本は日本にいる間に読んでくることにしているのだが、他にも読みたがる人がいるだろうからと、今回は村上春樹の「1Q84 Book3」を、日本から持って帰ってきた。内心「重いなぁ」とぼやきながら。どうせ持って帰るのだからと、こちらに帰ってきてから読んだのだが…、食料品を持って帰ってきた方が良かった、かも。



この「1Q84」の中に出てくる「猫の町」からは、朔太郎の「猫町」がすぐに思い浮かぶ。猫神に憑りつかれた「憑き村」、猫の精霊ばかりが住んでいる村が、この宇宙の何処かに存在していると確信する、詩人の魂の掌編。以前にはコカインなどを使ってトリップしていたのだが、散歩中に故意に知らない道に入り込んで方向感覚を失う、つまり「迷子になってみる」という安上がりで健康的なトリップを愉しむ術ーそれは方位の感覚を失うという、知覚の疾病「三半規管の喪失」のせいだそうだーを身につけた主人公が、それによって迷い込んだ猫町。方向知覚が欠如している気味のある私には、妙に納得のいく話だった覚えがある。この掌編の中でも確か「商店の看板」が知覚の境目になっていた。

「1Q84」に出てくる、帰りの列車が止まらない「猫の町」、お祓いが必要な町。「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町」、その「猫の町」を出ていくように天吾の背を押すのが、「一度殺されたことがある」という看護婦で、これは父親の遺品の中にあった唯一の家族写真で初めて対面した彼の母親に似た顔立ちをしており、彼女の持つ記憶(見知らぬ男に首を絞められて殺された)と、天吾の母親が絞殺されたという事実は類似している。彼女は言う、「天吾君は暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい、そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない」と。これって、とても母親的な言葉だ。あの「猫の町」には猫の精霊になってしまった天吾の母親、男と逐電し絞殺された女が住んでいるのかも知れない(看護婦に生まれ変わって昏睡状態となった元亭主を看護してるなんて、独特のアイロニー!)。その「猫の町」で、父親は己の唯一の存在理由であるNHKの集金人であり続けようとし、それを息子に否定されて生命を維持することを放棄する。母親である看護婦は息子を外へと開放する。あの「猫の町」には時空を超えた川奈天吾の家族がいたのだろう。



何も失うものがなかった青豆、男の命を救うために自らの命を絶とうとしていた青豆、孕んだ「小さなもの」を護るために外へ出ていく青豆。ふむ。そういえば夢の中で、裸で風に晒されつつ首都高に立つ彼女にコートを着せかけた「銀色のメルセデス・クーペの上品な中年女性」は、天吾と青豆が首都高への階段を昇り、月が一つの世界に出たときに、運よく空のタクシーを捕まえる事が出来た原因の女性でもある。タクシーのお客が隣車線に「銀色のベンツのクーペを運転していた女性」の知り合いを見つけ、そちらに乗り換えたが故に、空のタクシーは天吾と青豆の前にやってきたのだ。それは「麻布の屋敷に住む老婦人」を彷彿とさせる、善き護り手だ。ここにもまた母親的なものがある。

生憎なことに抹殺される羽目に陥ってしまった牛河が、最後の瞬間に見たのが絵に描いたように幸福な家庭をイメージさせる「庭のある一軒家で遊ぶ子犬」だったというのも、何だかアイロニーを感じさせる。プロである以上、尻尾を捕まれたら処分は致し方ない、それがプロとして生きる心構えだ。正直に話したから助かるなんて思うのは甘い。ふかえりの眼に射抜かれてしまった牛河は、二つの月が見える世界に入り込み、リトル・ピープルたちの温床となった。彼の存在意義はそこにあったのだろう。彼の髪の毛を使って紡がれる「空気さなぎ」は何を宿すのか? 彼が最後に見た子犬だったりして? それは邪悪なものなのだろうか? そしてもしかしたら、天吾の父親も二つの月を見ており、ベッドに横たわる肉体は彼のマザであり、影のドウタはNHKの集金人となって、リトル・ピープルの媒体として青豆・ふかえり・牛河という身を潜めている同類を攻撃していたのかも。それを息子によって否定された以上、存在するは許されないことだったのだろう。あたかも神話的世界の父親殺しに通じるように。

首都高への階段を昇り、月が一つの世界に戻ったかのような天吾と青豆。そこはガソリンスタンドの虎の向きが左右逆になっている、もう一つの世界だ。天吾と青豆が出会うために月が二つの世界が存在したのなら、二人が出会った後は当然ながら、月が一つでも、別な三つめの世界でなくてはならない。小さなものを護りながら、新しい世界で生きていく決意に至ったのは、村上春樹の小説世界ではもしかしたら画期的なことで、ピーターパン的世界から一歩、大人の世界に歩みだしたかのようなものなのかも知れない。ワタクシ的には、まぁ、ちょっと中途半端なラブ・ストーリーだったなぁ、という感じか。ほら、恋愛って、消去法で成り立ってるものじゃない? 選ぶ事が出来なくなったらゲームオーバーみたいな。必然になってしまった天吾と青豆のラブストーリーは、何だか小奇麗になってしまったのよね。必然のラブではオモシロくない(個人的な好みですが)。だが、男より素早く大人になっていく女にとって、いつまでもピーターパンな男はいかがなものだろう?



だが、ふかえりを媒体として成就した天吾と青豆の「子を生す儀式」から産まれてくる子は、やはりマザとドウタとかの関係でしかないのだろうか。そうだとしたらツマラナイことだ。「1Q84」では、ふかえりや青豆、そして天吾のように、10歳ごろに親という存在から否応なしに何かしらの力の脅威を受け、自分の中の何かを喪失したものが「ドウタ」を持つ、つまりは損なわれた部分がマザの「心の影」として分離して在るのだろう。言い換えれば、自己分離を経て、自己が再構築されるステップを踏まぬ限り、二つの月を一つにはし得ないという事だろうか。二つの月(マザとドウタ)を一つにできないと、森に棲むリトル・ピープルたちの通路になってしまう。二つの月を見て、分離したまま死んでしまった牛河のように。これって、やっぱり村上春樹的教義本なの?

しかし「1Q84 Book1,2」を読んだのはもう1年半も前で、印象すらほとんど薄れていたし、やっぱりこういうものは全部まとめて読んだ方がいい気がする。「Book3」が出るのを知っていたら、揃うまで読まなかったのになぁ。踊るあほうにもなれんかった、と反省。




ここにお借りした猫は、バルセロナ在住の友人・緒田原文子さんの作品からやって来ました。こういう太平楽な猫の町なら、しばらく暮らすのも悪くはないかもしれない、なんて初夢的に思うのでした。今年も愉しむぞ〜!
| るな | 本の愉しみ | 15:15 | comments(0) | trackbacks(0) | -
新・時代小説
私は時代劇が好きである。と書くと、チャンバラものが好きのように思われるかもしれないが(確かに好きではある)、剣豪の奥義を極める類の話は、正直苦手だ。極めることは個人的精進の法であり、別段剣豪でなくてもみんな同じじゃん? という不遜なワタクシが顔を出すのである(まことにもって…、はぁ)。



かといって、究極人情話のような類も苦手だ。それなら落語を聞いた方がいいように思う。人情話の一つや二つは、生きていれば個々の中にあるので、それを改めて字面で見るのはなんだかなぁ、という気がする。「芝浜」など聞いた方が断然面白いし。「落語は絵だ」という言葉が納得できる。人情は時代を超えても存在し続けているのであろうが、現代的状況でド〜ンと書かれれば気恥ずかしいものだ。ところがそれがお江戸調でなら、何となくこの気恥ずかしさをちょっと遠くに置いておける。泣いちゃったりしてもいいか、と自分にも優しくなれる。しかしオチがみんな同じようになってしまうから、人情噺だけではツマラナイ。懐深い話にするには噺家の巧みか、書き手の巧みが肝心なのだろう。

で、江戸モノが好きな私は、その辺りがミックスされたような「捕り物帖」的時代劇が結構好きで、池波正太郎の「剣客商売」「鬼平犯科帳」など、既に古典とも称せるものや、最近では宮部みゆきのちょっと妖しの世界も面白い。彼女には人の闇が闇であった時代の怖さと哀しみがある。

最近お勧めということで読んだのが、冲方丁の「天地明察」。スッスッと読めて、まことに手際よく一気に読ませる物語本であったが、直ぐに忘れてしまいそうだ(既にもう、朧な印象しか残っていない、何たる事でしょ)。碁打ちであり続けながらも、大和暦を考案した日本最初の天文学士・渋川春海の、何事も布石を敷いての詰めの一手か、ということを妙に納得させてくれる「よくできた物語」。起業家成功物語風だし、まさしく新・時代小説なんだろうが、なんだか物足りなさが残るのは何故なんだろうかと、うつらうつらと考えていたら、そうだ、ここには悲哀がないのだった。人間の闇が描かれていないのだった。物語の筋を追うことが主で、人が描かれていないのだった。いや〜、伝記物はワタクシ好かんのよね、とまたもや不遜な。

闇ということに関すれば、まとめ読みしたのが夢枕獏の「陰陽師」。イケメン安倍清明(逢ってみたい!)と笛の名手・源博雅という、ボケと突っ込みがちょっと心地好いパターンを生み出していて、私の大好きな平安時代、人の闇が鬼をも生み出すという、本当ならもっともっと怖〜い世界に行きそうなところを、ひどくサラリと仕上げてある。同じ素材を宮部みゆきが扱ったら手強い闇に引きずり込まれそうなのだが、この清明と博雅という組み合わせが何とはなしに潔く、他者を引きずり込まないように仕上がっている。「ゆこう」「ゆこう」というパターンが不思議な安心感を与えてくれるのだ。



このシリーズの一話に「無呪」という話があり、私はふとパトリック・マキリップの「妖女サイベルの呼び声」を思い出した。この作品は私に「言霊」ということについて、深く思いを馳せさせた幻想小説の名作だ。陰陽師の「無呪」に出てくるのは、この世で最も古い神「混沌」で、陽炎のように未だ形を持たず名を持たぬ混沌は、人が己の心の中に思い描いた姿に成ろうとする性を持つ。名を与えられるという事は、その形に当てはまろうとする事なのであって、それは混沌自らの死を意味する。つまり混沌とは混濁した意識そのものだった訳だ。
そして妖女サイベルは、力ある妖獣をマインド(心)の強さで屈服させ、己の支配下に置く。その方法とは妖獣の名を呼ぶ事で、彼女のマインド(支配力)が妖獣の力に勝った時、妖獣はその召喚に応じる。マインドの強さを持ち続ける事で、妖女サイベルは妖獣たちを「名前=己自身」という檻に閉じ込めているのだ。

あら、そう考えれば犬の調教に似ている。まぁ、マインド(我)の強いモノが制するっていう事では、人間同士だって同じといえば同じだけどね。おほほ。




久しぶりの帰郷で、四半世紀ぶりに霰を見た。内側に水彩絵の具でいろんな色を塗った小さな紙の箱を作り、その中に霰を入れて振ると、霰にいろんな淡い色が付く。小学生の頃、私が考案した秘かな冬の遊びで、アラレ万華鏡と呼んでいた。久しぶりにやってみたかったが、残念ながら霰は積もることなく溶けてしまった。

この時季、北陸の空は鈍色に変わる。毎朝、ご近所の子犬を借りて一時間ばかりの散歩を愉しんだ。画像は村の山寺と、お散歩友達のタイガ君。私が子供の頃、鹿や猿が里に下りてくるなんて事はなかったのに、今は庭先で遭遇するんだとか。茸や山菜採りに気軽に入れる山ではなくってしまったんだそうな。



それでも今年は柿の生り年で、何処へ行っても枝に多く残っているのが見え、あの柿色の温かみが嬉しかった。久方ぶりに収穫の楽しみも味わった。熟した柿をもいで食べると、しみじみと晩秋を、そして迎えつつある初冬の、あの震えるような空気を、肌で感じる事ができた。

ブータン国王夫妻の影響で、幸福度という不思議な度合いを測るのが流行りらしい。福井は「一番暮らしやすい県」として名を挙げたが、今や「一番幸福度の高い県」らしい。今あるものに満足する県民性なのかもしれない。多くを望まないことこそが「足るを知る」という事なのかもなぁ。わが故郷・若狭は、今再び原発問題に直面している。脱・原発を目指すらしいのだが。人の営みというのは、難しいものだ。


来る年が、実り豊かな年でありますように。穏やかな新年をお迎えください。
 

| るな | 本の愉しみ | 16:29 | comments(0) | trackbacks(0) | -
贅沢という風が吹く
イギリスはいいなぁ、なんて暢気な事を書いていたら、そのイギリスがエライ事になっており、友人たちから「息子が帰ってきてて、良かったねぇ」と言われる始末。やれやれ。追跡調査で捕まった暴徒の中にはテニスコート付きの家に住み、イギリスでもトップクラスの学業優秀者たる小娘(新聞には名前まで公表されている)もいたんだそうだ。低所得者層の若者たちによる反社会的行動、とひと括りに出来ない根深いものがあるのだろう。



こんな風にチューブのなかで母親が子供に本を読んでやっている、あのもの静かな英吉利的英知が好きなのに。


さてと。古本市で1冊1ユーロで買い漁ってきた本の中に、森茉莉の「贅沢貧乏」があった。私はこの人の本は翻訳ものの「マドモアゼル ルゥルゥ」を読んだだけで、昔懐かし薔薇十字社から出ていた。装丁がすごく凝っていた覚えがある。あの本は今、何処にあるんだろう? 覚えているのはそんな事ばかりで、内容に関しては全く記憶からとんでいる。大体にしてからがこの「贅沢貧乏」も「貧乏贅沢だったけ?」というようなうろ覚えさなのだ。

−華麗な想像力、並外れた直観力と洞察力。現実世界から脱却して、豊穣奔放に生きた著者が全存在で示した時代への辛辣な批評。…豪奢な精神生活が支える美の世界− これが文庫本の裏表紙に書かれた紹介文。森茉莉は文科系女子に人気なんだそうだが… ほんまかいな。年老いた老獪な黒猫の辛辣さなんぞ、そうそう解るお嬢さんがいるとは思えんのだが。

時々凄く好いセンテンスがある。しかし「贅沢貧乏」だけならまだしも、エッセイ集の全編を読んでいると少々草臥れる。昔、フランス宮廷では豪奢なドレスを身に纏った麗人たちは、庭の物蔭で用を足し、風呂なんぞに入らず香水を雨水のように降りかけて自らの体臭を濃厚な薔薇にも負けじと練り上げていた、そんな匂いが立ち込めてくるようで、強い匂い(森茉莉的に書くと香い)は私の頭を眩ます。強い香いであればある程、すぐに鼻が馬鹿になるのだ。森茉莉にとっての欧羅巴とはフランスであり、反社会的なもの、反カトリック的なものといった耽美主義が横溢していた19世紀の巴里なのだ。そう言った豪奢な時代(豪勢という近代ではなく)の欧羅巴を垣間見、そこに自分の残り人生の全てを凝縮してしまった金髪くるくる巻き毛のおフランス人形みたいなのが、ずっと老嬢になるまで体内に息づき、自分の絶対的審美眼を教会の中のロウソクのように揺るぎない信仰心で灯し続けたのが森茉莉だという気がする。というと、やっぱり不気味な老嬢なのだが、何処か無心さというものがあり、それが老獪さとうまく噛み合わされて、嫌味なんだがけれんみのない、ばあさんの愚痴であるようでいて、なかなかに子供や孫を甘やかしているように思える佐藤愛子よりは、怒り方が小気味が好い。双方共に文学者の娘であり、大甘に父親に溺愛されて育ったのだが、その美意識、社会との接し方は極端に違う。だが、双方に似通っているのはその潔さとも云うべきもので(潔さの質が少し違うのだが)、育ちというものを彷彿とさせる。



私にはこういう父親を溺愛する娘の心理は不可解だし、結婚生活が不具合なものとなり、その後いささかきっぱり過ぎるくらいに潔く(森茉莉は子供も置いて家を出ている)、ひとりナルシズム的生活を送るという事は、何だかそれはそれで現実離れした胡散臭いものにも思えるのだが、彼女の悪徳ならぬ「道徳の栄え」を読むとなかなかに愉快である。

―私は訪問というものがしんから厭である。主人の部屋も、応接間も、飾ってあるものも、花も、食べるものも、会話も、玄関も、どこの家も同じだ。時事問題について言う感想も、同じだ。だから日本では訪問する必要もないし、話を交える事も全然無駄である。…全て会話のルウルがあって、厳然としており、一寸ルウルから外れると、妙な顔をされ、私だけ尻尾でもあるような具合になる。私はもう人々の会話も、感想も、全て分かっているから、会話は交える必要がない。ー 人との集まりが苦手な私は、思わずくすりとしてしまう。夏に付き物の同窓会とか、すごく苦手だ。

だが、人との交際(つきあい)を絶ってしまったかのように見えて、なかなかにこの人は文壇好きで、毎日何種類もの新聞を読み、週刊誌が大好きというミーハーなお婆さんでもある。芸能界のゴシップにも詳しいし、TVを見ての突っ込みも全開だ。「贅沢貧乏」の中にもふんだんに使用されている、この、見たくないものは見ないで済ます、という手法は老眼的手法である。遠くのものは美しく見えるが、手前の塵芥は薄ぼんやりして、意識をちょっと飛ばしてやれば気にならなくなる。ここら辺りにいわゆるオバサンパワーが産まれてくるんではないか、と私は密かに思うのである。オバサン独特の個人主義は、その視点がちょっとずれて辛辣に面白ければ持て囃されるが、単なる放談であれば何ともつまらない。

私は豪奢なものが決して好きというのではないが、豪華絢爛の中にだけ贅沢があるわけでない事は識っている。人生の中のちょっと質の良いおかしみや哀しみ。そんな風な、時に贅沢という風が精神(こころ)の中を吹き渡っていくと、私は晴々とする。

森茉莉を読んでいたら、何故か急に白洲正子の本が読みたくなってきた。西風、東風。やがてつむじ風。



ところで耽美派と言えば荷風や谷崎は割に好きな作家だが、私は三島はあまり好きになれない。だからその三島が絶賛したという森茉莉の小説も、実はあまり読む気になれない。ま、本のとっかかりなんぞはそんなものかもしれない。そう言えば、森茉莉が自作を戯曲化した三輪明宏を痛烈に扱き下ろしたようだが、私は三輪明宏の「黒蜥蜴」が好きであった。三輪の緑川夫人=黒蜥蜴がハマり役であったように、明智小五郎役は天地茂以外には思い浮かばない。今の三輪明宏の開き直ったようなけばけばしさは嫌いだが、「ヨイトマケの唄」を歌っていた彼(丸山明宏)は美しくてカッコ良かったし、三輪の中の男の部分が醸し出す黒蜥蜴の妖艶さも大好きだった。江戸川乱歩―三島由紀夫―三輪明宏の怪しいライン。昔の丸山明宏は本当に麗しかった…。しかし、彼の中のプロレタリアは何処いったんだ? なんであんな今様丸山花魁みたいになる?

話はとめどなく流れるが、この「ヨイトマケの唄」が民放では長らく放送禁止曲だったとは知らなかった。逆にNHKは一度も禁止曲に指定した事がなかったそうだが、土方というのが差別用語になっているのも、放送禁止用語になっているとも知らなかった。岡林の「手紙」や「チューリップのアップリケ」はそうだろうなと察せられるが、赤い鳥の「竹田の子守唄」も今は禁止曲なんだと。竹田の子守唄が被差別部落に関わる歌だという認識が、あの当時あったのだろうか。中学生だった私は単にFolk Song(民謡)だとばかり思っていたが。差別はあると幻想する者の中から生じてくる。同性愛者への差別は少なくなってきたようだが、ホモはまだしも、レズビアンはまだ駄目って感じがしないでもない。その辺にもおかしな差別がある。あたかもゲイは文化的だが、レズはねぇ…、って感じ。なんでだろ?

今日からマドリッドではローマ教皇を迎えて、国際カトリック教信者青年総会が開かれる。そしてバルセロナでは国際ゲイ総会が開催されるんだとか。世界は光に満ちている、のかな?
| るな | 本の愉しみ | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) | -
暑中お見舞い


こんな涼しげな暑中お見舞いをする必要もないくらい、バルセロナは天候不順。7月も終わろうとしているのに朝夕はまだ上着が必要なくらいで、6月にあんなに暑い日があったなんて嘘みたい。冷房のない我が家では過ごしやすい(というか、夜は窓を閉めないと寒いくらい)のはありがたいが、何だか寂しい気がする。

やっとぼんやり過ごせる時間が出来てきたので、久しぶりに中上健次を読んだら、くったりしてしまった。発表当時に「岬」や「枯れ木灘」を読んで、その暝い血がごうごうと渦巻くような圧倒的な物語性に引き込まれもし、嫌悪もした事が思い出された。買った覚えがないのだが片付けをしていたら「千年の愉楽」が出てきて、う〜ん、どうしようかなぁ、と思いつつも手を出すことにしてしまった。たぶん、涼しかったから…。不条理でも何でもなくて。

中上健次が既に亡くなってしまっている事も、彼が被差別部落の出身だという事も知らなかったのだが、それはいかにも生き急ぎをして逝った「路地のもの」みたいだ。「オリュウノオバ」という語り部が物語を紡ぎだす、それは血族の物語であり、そこに流れている物語性はガルシア・マルケスの「族長の秋」「百年の孤独」の如く、中南米やフィリピン社会におけるコンパドラスゴ(広範囲の親族意識)と相まって、蔓が絡みつき寄生しあうかのように不可思議なジャングルを生みだしていく。植物の持つ強烈な生殖力。その蔓に絡みとられてしまって、そこから逃れようともしない何か諦めの感性、肯定と諦観がない交ぜになってしまった、土地そのものに呪縛があるような「路地」を生霊・死霊が行き交っている。句読点なく延々と続く語りは、琵琶法師の語りのようで、文字の読めないオリュウノオバが記憶をつづれ織りにしているのだ。

部落問題に初めて触れたのは中学に上がる時で、校区内に被差別部落という存在がある事も初めて知った。ちょうどそのころ岡林信康の「手紙」が歌われていた。あの、「私の好きなみつるさんが…」という哀切の歌である。これを聞いた時、みつるという男は何とまぁ、根性のない奴なんだと思いもしたが、あの時代の一般的な被差別部落への意識、閉塞感を思えば、「部落に生まれたそのことの どこが悪い どこがちがう」といううめき声こそが現実だったのだろう。「手紙」は遺書から、「チューリップのアップリケ」も中学生の詩が基だというし、岡林のそういう物語を物語る手法は中上健次に通じるところがあるように思う。

それにしても「路地の高貴にして澱んだ血」とはいかなるものなのであろうか。夢と現がない交ぜになって狂気に向かってひたひたと歩いてゆく人は、みんなそんな血が流れているのやもしれぬ。






しかし、夏に読んで良かったのかも。これが冬だとずっしりし過ぎて、いつまでも消化不良のお腹を抱えて歩くことになったかも知れない。


| るな | 本の愉しみ | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | -
紫の釣鐘草と苦い珈琲の時季
先日来、しつこいくらいにアンケート調査の電話がかかってきた。依頼ではなくほぼ強制。そんな押しの強さを感じさせる女性の声で「州政府によるアンケート調査」だというのだが、いかんせん家にいる時間を狙ってくるということは食事中だったり、もしくは調理中だったり、実にタイミングが悪い。向こうも仕事だからと働く女性の苦労は分かるんだが、こっちもご同様である。何度か断ったがとうとう捕まってしまった、しかも早朝仕事の後、久しぶりに昼寝を楽しんでいるというタイミングで。



頭の中がボワ〜ッとしたまま、いきなり早口の威勢のいいカタラン語でまくしたてられ、正直ムカついた。しかも内容が昼寝ボケには結構ヘビーだった。「カタルーニャにおける家庭内暴力の実態調査」 無差別検索で私が引っ掛かったのだそうだ。アンケートに答えてもらうまで諦めません、という態度なので否応もない。質問は「家庭内暴力を周辺で見聞きしたことがあるか」というのから始まって、「カタルーニャにおいて女性の権利は保護されているかどうか、そしてあなた自身が暴力を受けたことはないか」というものである。

私の世代は男女平等の幻想で息をしてきた世代である。同権に行くより、もっと手前の世代だ。我が高校は割に自由な気風ではあったが(全国で唯一ホーム制が残っていた)、しかし高校3年の時、女子生徒には家庭科の授業があった。そして1分間にきゅうりの1ミリの薄切りが正確に何枚切れるかという、実にくだらないテストをやっていた。で、その間男子生徒は何をやっているかと言うと、なぜか英語の授業だった。ムカついた私たちは「男子にも家庭科をやらせろ! どうして受験科目をやってるんだ!」と騒ぎたて、事態の鎮静化を図った学校側は結局男子生徒には体育の時間を振り替えた。男は強く雄々しく、女は家庭を守りましょう的対応にもムカついたが、グラウンドを走っている彼らを見て、少し気は晴れた。私たちは全く平等でなんかなかったのである。

そんな世代で息をしてきた女として、同世代の男たちを見れば、当然ながら彼らの意識は「男女平等」なんかではない事が分かる。うまくして「弱い性である女性は守るべき存在」という考え方、だがほとんどの男性には封建的意識が根強く残っているし、彼らの多くはその方が世の中のシステムはうまく機能する、と思っている。「女性は家庭を守る存在」という幻想は、消えることなく誰もの意識の中にあるから、共稼ぎであろうが出産育児、洗濯掃除に料理、みんな重く女性側に圧し掛かってくる。特に日本の場合、男の母親がその意識から一番脱することができないんじゃないかという気がする。自らもその辺の不平等を感じて生きて来た筈なのに、息子の話となると話は別、息子には「亭主関白」でいてもらいたがる母親が多い。女に迷惑をかけない男を育てる、という意識が不足してるのかもしれない。同性が最も手ごわい。

今回のドメステッィク・バイオレンス(DV)アンケート調査を通じて、何かしらの暴力の影に怯えたことがない女性などいるのか、という疑問が湧いた。質問の中に暴行、レイプといった肉体的脅威だけではなく、暴言、支配、恫喝などを親やパートナーから受けた事はないか、という精神的暴力を問うものがあったからだ。そして父親が暴力を振るう人物であったかという質問もあった。児童虐待を含む訳だが、父親が母親に暴力(暴言)を振るう姿を見て育ったかどうかも重要なポイントとして挙げられていた。子供と言うのは非常に親のストレスを受けやすい立場にいる、最も弱い存在だ。最近増えている母親とそのパートナーによる幼児虐待は、その典型的な例だろ う。肉体的であれ精神的であれ、虐待を受けた側は受け身となっていくしかない。その輪廻から逃れることは非常に難しい。暴力、暴言を振るう父親を見て育っ た子供は、精神的要因としてインプットされ、それが否定の方向に行くか是認の方向に行くか、攻撃性に出るか受動性に出るか、それは分からないけれども、潜在的に暴力の存在を認知しているの ではないだろうか。

自分の力を誇示できる立場にある男は、誰かを支配できるという気持ちによって己を支えているのかもしれない。例えば、わざと危険な運転をして同乗者に恐怖心を与えるのは、自分の支配力を見せつけようとする行為であり、誰かを支配する喜びを感じたいという欲望の表れだろうし、部屋のドアをノックこそすれ、返事も待たずにをいきなり怒鳴り込んでくるというのも、自分が相手に恐怖を与えることができるという満足感が深層心理にあるのではないだろうか。DVの大きな要因はストレスであると言うが、自分がストレスに曝された際に、自分より弱い立場の他者を力で支配しようとするのは、卑屈な行為である。

今の時代、ストレスを感じずに生きている人など僅かだし、女だって外で働いていれば7人とはいかずとも、3人ばかりの敵はいるご時世だ。今や相手よりいかに早く「ストレスが…」と言うかが大事なんじゃないかという気らする。自分のストレスばかりを言う人物は、己が相手に与えているストレスには存外気が付いていないものだ。自分の弱い部分に踏み込ませないための、いい防御柵のようなものかもしれない。 

スペインはDVが多い国だ。マッチョ志向(つまり亭主関白思想)が強い国だし、やはり母親が息子に異様に甘かったりする。今まで表に出にくかった事件が、この7,8年で非常に多く取り上げられるようになった。DVを受けた女性たちのシェルターも増えたし、口を噤んでいてはいけない、声をあげよう、という政府広告も頻繁に見かけるようになった。それでも子供の目の前で、元妻にガソリンをかけ火を付けるようなショッキングなニュースは後を絶たないし、潜在的なDVは至る所にある気がする。とどのつまりは、ひとりで生きて行ける自立した男が少ない、という事なのだろう。母親に依存し、パートナーに依存し、自分が強いという幻想を抱かせてくれる事を相手に求め、それが満たされないとキレる。そして弱い立場のものを攻撃する。そんな構図が見え隠れしてくる。




そんなこんなを考えていたら、偶然にも私の目の前で村上春樹の「1Q84」のBook1とBook2を返却した人がおり、2冊揃っている事はなかなかあるまいと重いのを抱えて借りて来た。読む前に書評などは読まない主義なので、この中に家庭内暴力や児童虐待が盛り込まれているとは知らなかった。だが村上春樹が描く性と暴力はどこか乾いてリアリティがない。彼の描くセックスは昔から濃厚そうに書かれているが、ただ解剖学的に露骨なばかりで、なんだかまことにさっぱりすっきりした後味である。子宮が疼くという事はないなぁ、まぁ、官能小説じゃないんだけども。読んでいる途中でBook3が出たと聞き、続きがある物語だというので取り敢えず3を読んでみないとどうとも言えないが、青豆と天吾のセックスは手を繋ぎあって互いを慰撫する究極の交わりになるんだろうか。

村上作品の登場人物は自己完結型であり、他者に求めるものが少ない。いや、少なかったと言うべきか。ギャッツビーの世界のように淡い孤独と、モノトーンな喪失感、そしてそこに一点の色を求めてやまない軽い焦燥。「ノルウェーの森」の女の方がはっきりと喪失されたものがある分、エロティックだったなぁ。(もうあんまりよくは覚えていないけど)、狂気というのはエロティックの真髄なんだという事が分かる。社会に関わることなく自分の尻尾を噛む蛇のように、疑似自己完結型の堂々巡りの世界だった村上作品が、二極対立的な解りやすい社会構造に何故係り合いを持とうとするのか。今までの彼の完全虚構の世界にあったリアリティが感じられないのは、暗喩どころではなく直喩されているような人物や集団などの、すでに存在したものたちのリアリティの方が強いからなのか。

ふかえりと青豆、天吾というトライアングルは、誰が本当のパシヴァ(知覚するもの)であり、レシヴァ(受け入れるもの)であるのか、その表裏一体の面白さの気がするのだが、これこそがメビウスの輪なのかもしれない。

だがそれにしても10歳というのは大きな意味合いを持つ年齢だ。自我が芽生え、自分の中の破壊性に気づく年齢であり、己に掛けられた呪縛を解く為に1歩が 踏み出せるようになる、そんなお年頃。父親なるものはまず最初に破壊し踏み越えるべき存在なのだという事に気づき、昂然と立ち向かわねばならない。そして 母親なるものは、その破壊された屍に根ぶとく咲こうとする花であり、いかなる形であれそれは子が摘み取らねばならない。それ以外に自我はない。というよう な事を、暑くなり始めた午後の陽射しのなか、自分の10歳のころの記憶に重ね合わせながら、薄ぼんやりと思うのでした。

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 五月が過ぎ、六月が来て私らの皮膚に柔軟やはらか なネルのにほひがやや熱く感じられるころとなれば、西洋料理店レストラントの 白いテエブルクロスの上にも紫の釣鐘草と苦い珈琲(コーヒー)の 時季が来る。     
白秋
| るな | 本の愉しみ | 10:07 | comments(0) | trackbacks(0) | -
記憶の重さ、遠さ…
 海外に暮らしていると日本で話題の本というのが、早々手軽には読めない。週刊ブックデビューのようなものをたまに見ると、ほほぅ、こういう作家が出てきたんだ〜、とちょっと読みたい気がするが、じっくり考えてみると、まぁ、さほどに話題作だというので直ぐに飛びつく必要もないかな、という気もする。ここでは日本と同じ時間が流れているわけではないのだし。でも頭の中にはおぼろな記憶として残っているので、ぶらりと行った日本語図書館などで見かけると、やはり手に取ってみたりする。話題作はひっきりなしに借り出されているので、めったにないチャンスかも、と思うと重い単行本を抱えることになる。先日行った時には「悼む人」と「1Q84-2」があった。2から読んでも仕方もないので、「悼む人」を借りてきた。



これはかつてブックデビューに紹介されていたのを見た記憶があったのだが、死を扱うテーマが(おくりびと、とか)が続いていたせいもあって、また身近に人を亡くしたことも重なって、しばらく避けて通りたい部分ではあった。映画「おくりびと」を見たのは日本へ帰る飛行機の中でだった。亡くなった人を清め送り出す職業者としての「おくりびと」と、事故や事件で亡くなった人々を、ただただ分け隔てなく悼むことで自らの存在を問い続けている「悼む人」。

悼むという行為は私にはひどく個人的なものだという気がする。悼むという行為は記憶に依るものであり、個人的な記憶のない人を悼むということは、本当の意味で出来ないのではないかと思うのだ。「死」そのものが、そのまま悼むことには繋がらない。「死」を悼むにことにつなげるには、何かしらの記憶、思い出が必要なのではないだろうか。ひとが最も恐れているのは忘れ去られることなのだろう。誰かの記憶の中に留まっていたい、思い出の中で息づいていたい…

弔う気持ち、冥福を願う気持ちがあっても、それは悼むというのとはちょっと違う気がする。その死を悲しみ嘆くという「悼む」という語彙からすると、厳密に私が今も心の中で悼むひとと云うのは、ごく限られた人達である。それは記憶の中で鮮明さを失うことはあっても、忘れ去ることはないだろう人たちだ。記憶の中で彼らが今も息づいているのは、愛し愛されたという記憶からに依るものだという気がする。ひとが愛し愛されたという記憶を持つには、共に過ごした時間がなくてはなるまい。血の繋がりだけでは記憶の中に息づくことはできない、少なくとも私にとっては。結局は「悼む」というのはひどく皮膚感覚的なものなのではないだろうか。触れ合った記憶、その温みが今も私の中に温かい思い出を紡ぎだしてくれる人たち、私にはそんな人達しか悼むことはできない気がする。

この小説「悼む人」が胡散臭い聖人物語に陥らず、小説として成立しているのは、これが恋愛小説であるからだろう。愛を証明することが愛だと思い夫を殺す女と、人の死を忘れていく事に罪を感じる男との、どこか明るい未来を予感させる恋愛小説に仕立てられているのが妙味なのだ。メビウスの輪のように(あるいは自分の尻尾を飲み込む蛇のように?)、愛と死は罪と罰のようにリンクしている。ひどく哲学的な様相を持たせているようで、実はとても卑俗的な面のある物語という気がする。遠くを見ている錯覚を起こさせておいて、実は自分の足元しか見ていない、そんな感じ。

でもこれ、映画になったりするんだろうか? ちょっと見たくない感じ。

映画としては「おくりびと」よりも「歩いても 歩いても」の方が好き。「死んでもいなくなる訳じゃないのよ」というセリフが静かな日常的世界の中で生きている。人は誰でも「悼む人」であるという事が、大道具仕立てではなくしみじみと感じられる作品だったし。しかし、こんなにも「死」を扱ったものが注目を集めるのは、やはり乾いた時代を反映しているのだろうか。自分の母親の墓に7年の間一度も参らずじまい、という某知人の娘の話に愕然としたが、それは若い彼らにとって「忘れ去られていく事」がまだ実感としてない故の残酷さなのだろうか。やがて彼らも年を重ね、思い出によってしか死者は生きられない事に気づき、自分の死が垣間見えてきた時には、その残酷さを知ることになるだろうか。「墓のないことを儚いと云います」というコピーがあったけれど、墓があっても参る人のいない墓は、より無残な気がする。墓は思い出を手向ける場所であろうに。

おくりびとにせよ悼む人にせよ、死は次々と舞い降りてくる。一個人にとっても、死はいつ突然降りかかってくるか解らない凶刃である。未来に繋がる「今」はいつか終わるのだ…

見慣れし野今日は今日の芥子の花    るな
| るな | 本の愉しみ | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) | -
怒りと不愉快の狭間
知人が読んだ本を置いていくわね、と言って佐藤愛子の「まだ生きている」という文庫本をくれた。「この人のエッセイを読むと気が晴れるのよ」という。「人気の激怒爆裂エッセイシリーズ」とある。う〜ん、正直言って私は日本人女性作家の小説、エッセイの類はどうも苦手意識が強かったりするのだが、佐藤愛子女史は「怒りの…」という形容詞がつく威勢の良い方だという認識と、遠藤周作との掛け合い、そして何故かNHKでやっていた訳の解らぬ「血脈」というドラマの原作者、というくらいしか知らない。ちなみに私が知っている女流作家は佐多稲子(「体の中を風が吹く」このタイトルが好き)、田辺聖子(朝ドラの藤山直美が秀逸でしたが、読んだことはほとんどない)、中山あい子(女でも達成できるあの飄々さよ)、倉橋由美子(鏡の前で両脚を広げ女の内奥を見ると云う隠微さにショックを受けたものでした)、ばかりしか識らず記憶になく、まとめて作品を読んだ事があるのは「あの時代の流行り」だった頃の倉橋と高橋たか子、推理小説好きとして宮部みゆき、江戸ものの平岩弓枝くらいのもので、後の方々のは拾い読み程度だったり、エッセイかTVでインタビューを見かけたりといった程度。瀬戸内寂聴もTVでの話題でしか知らないと言ってもいいかもしれない。



余談だがこのうち二人の方(田辺聖子と瀬戸内寂聴)が源氏物語の現代語訳に取り組んでおられる。私は源氏物語が大好きだが、やはり原文が一番美しいので現代語訳にはほとんど興味がない。しかし唯一谷崎訳は買って読んだ。円地訳も読んだが(装丁が美しかったような、森茉里的に)あまり記憶に残らなかった。それは谷崎には女性的隠微さがあるからなんだろうか。陰翳礼讃なくして女の隠微は生まれない。

脚本家のインタビューで、女流作家のものは「私が、私が」という主張が前面に出ていて、自分の脚色が入る余地がなさすぎる、という発言があって、なるほどなぁと思ったのだが、誰だったかしらん。女はやはり至近的、近視眼的見方が主なのだろうか。あるいは、女の感情と感情の間には余白がないから、他者の脚色は入り込みにくいと云う事なのか、とも思う。

しかし、TVドラマの「血脈」というのは原田芳雄、原田美枝子というちょっとレトロな組み合わせに興味もあったのだが、かなりめちゃくちゃな脚色だったのですぐに真面目に見る気を失ってしまった。それが「まだ生きている」の中に、その辺りの鬱憤も書かれていて面白かった。そうか、原作者自身が「何じゃい、それは」というシロモノだったのか、あはは。「さとまぎ」という佐藤一族の中に流れる荒ぶる血が引き起こすどうしようもない生き様はうまく伝わらず、ただドタバタした脚本になってしまっていた事に、原作者自身面白かろう筈がなく、「いやはや困ったものだ。私が悪いか。NHKが悪いか?」とあって、これも微苦笑を誘う。

傘寿を超えた今、かつて五十代の頃は「激怒」「憤激」が横溢していたのに、今は「不愉快」になった、年老いたのだ―、と云う嘆慨があって、そう言えば三十年ほど前は「やたらに目くじら立てる賑やかな作家だなぁ」と感じたものだったが、今はこの不愉快という感情が我が身に徐々に添いつつある。それだけ私も年老いたと云う事なのだろうが、そもそも私たちの世代には最初から佐藤流の「激怒」「憤激」という感情が発達していなかったのではないか、という思いもある。ただ彼女の怒りのエッセイを読んでいないので、どの程度が「激怒」「憤激」なのかピンと来ないと云う事もあって、感覚的に「っ」「!」が文章、もしくはセリフの後ろにくっ付いているのかもしれないなぁ。これが「っ!」となると、また一段とキツそうだなぁ、なんて事を呑気に考えているばかり。今度機会があったらこの「人気の激怒爆裂エッセイシリーズ」を読んでみようかとも思うのだが、怒りパワー炸裂している文章をまとめて読むのは少々疲れる気がしないでもないし。そういう怒りパワーの文章は月1くらいの連載で読んで「あぁ、そうだ、そうだ。ほんとよね〜」なんて気楽に相槌打ってるくらいのがいいのかもしれないなぁ。私はまだ「怒り」と「不愉快」の狭間に居るような、そしてもしかするとずっとその位置に居るのかもしれないなぁ、という妙な座り心地の良さがあったりもするのだが、それは何事にも対象に深く関わりすぎまい、と云う私たちの世代の感性なのかもしれない。

面白かったのは「愚痴の代わりに私は怒った」という一文。「母一人子一人の生活でグダグダと愚痴を聞かされるのと、地雷を踏んづけた様に怒鳴られるのとどっちがましか」と、一人娘に言うシーンがある。これは問いかけのように見えてそうではないのだが、どっちも有難くはないが、どっちがましなんだろう? 親子にしろ夫婦にしろ、人間としてのパワーがあれば怒れるが、パワー不足の場合愚痴になる、という事であろうか。生き抜こうとする気力と言い換えてもいいかもしれない。五十代でこの気力が横溢していたと言うのだから、大したものだと感心するばかり。

やれやれ、私も天命を知るという年齢になった訳だが、これからは女流作家の作品に「嫌味」ではなく「ぼやき」を感じられるようになるような気がしてきた。「吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ」というこの狭間、二十の時はなんやったん? 何でもありかいな、と予てから思っていたものだが、高齢化した今の時代、「七十にして心の欲する所に従って、矩をえず」の次、八十はどんな言葉が来るのだろうか。まぁ、取りあえずは素直に「耳順がう」まで行ければいいのだが…。


さて。今年もアーモンドが咲きましたよ。雨降りやまず、猫やなぎが静かに濡れています。


| るな | 本の愉しみ | 10:32 | comments(0) | trackbacks(0) | -
憎むに至らぬ縁

少し秋めいては来たが、まだ雨が来ない。この秋の茸はいかがであろうか、と気に掛かる。昨日は夫が久しぶりに鮪が食べたいという事で、バルセロナのボケリア市場に買い出しに行き、ついでにキノコも買ってきたので、この秋初のキノコスパゲティを頂いた。茸を買うのは滅多にない事で(それだけ自分たちの収穫に自信がある、と言うか、ただの過信と言うか)、だから基本的に自分たちでは収穫できない種類しか買わない。市場はいつも季節を先取りしている。

 

 

日本語図書館に行って何を借りようかと迷ってしまった。どうも日本の小説を最近読んでいないというか、だんだん読めなくなってきたような気がする。感覚のズレだろうか? う〜ん、と悩んだ末、それもいかんかなぁ、と、よしもとばななの本を3冊借りてきた。「キッチン」や「つぐみ」「白河夜船」「とかげ」「うたかた/サンクチュアリ」「哀しい予感」などは以前に読んだ筈なので(あれ、こう書くと結構読んでいるのだが、記憶に浅いのは何故?)、今回は「ハネムーン」「デッドエンドの思い出」「海のふた」と、いちおう出版順らしいものを借りることにしたのだが

 

私はこの人はずっと「吉本ばなな」だと思っていたら、いつの間にか平仮名表記に変わっていた。改名以降の本を読んでいないというか、関心を寄せていなかったという事になる。で、多分、またそのくらいの間隔で、この後も関心を寄せることはなさそうだ、というのが正直な感想。

 

彼女の小説にふんわりと靄の様に纏わりついている死の感性、よい子ちゃん的な光への強い志向、揮発油の様な愛の感覚、非常に個性的でありそうで、実は希薄な登場人物像。映像的な感性なのかも知れない。平坦な口語体で描くという姿勢を貫いているし、かな遣いが多いから、視覚的にもゆるい感じがして、読みやすいのは確か。気恥ずかしいほどストレートに今時の言葉をぽんぽん使っているから、同世代には解りやすいのだろう。死ぬほど愛してた、とか、かつての小説はその状況を描くために多くの言葉を重ね合わせて書いたものだが、彼女の場合それ一言で始めてしまう。新しい世代、という事だけではないと思う。

 

そもそも何故小説を読むのか、という事にふと思いが至る。そういう意味ではよしもとばななの描くものは小説ではないとも言える。ただ何となく優しい気持がふんわりふわふわ伝わりそうでいて、まぁ実際は「なんだかなぁ、このよいこちゃん的見下し視線が、どうにも胡散臭い」と思ってしまうのは、私の年齢故なのかしらん。決して「読後の爽やかさ」というのではない、妙に白々した気持ちになってしまうのでありました。突き詰めていく過程を書かず、至った結果だけを書くような手法にはなじめない、と言おうか。愛憎は表裏一体の激しい感情ではあるだろうが、今時の若者はそこに至らぬ淡い関係が好みなのかも知れない。しかし、淡交というにはほど遠い若さゆえに、どこか胡散臭さが付きまとう。でも、まぁ、若い世代が彼女の描くものを読んで、少し襟を正して生きないといけない、と単純に思い、そうゆう歩み方をしようとしてくれるなら大変結構なことではある。若者指南書か?

 

そんな事を思いつつ、一体いつの間に改名やらをした(2002年だそう)のだろうかと、ネットで調べてみたら、よしもとばななの居酒屋騒動というのが大きく取り上げられていた。それを読んで何となく感じていた胡散臭さの出所が判ったような気がする。要するに、彼女自身はしっかりしたよいこちゃんでは決してなく、物書きとして世界を繕っているだけなのかも知れないなぁ。子供の駄々ゴネをするような奴を居酒屋で見かけたら、不愉快だろうなぁ。人脈かぁ、そんなのがあるなら有るとこで飲めばいいじゃん。ねぇ? まぁヨーロッパで持ち込みなんかしたら、とんでもなく下品だし、気心の知れた店でも、あらかじめきちんと断って許可を求めるのがオトナだろうなぁ。

 

でもこういう自分の中の矛盾が溜まりに溜まって、綺麗事だけではないモノを書き始めたら、よしもとばななももう一皮剥けるかも。かもね? ワタクシ的にはもう当分いいかな、ではありますが。作品を纏めて読んだ方がいい作家と、そうでない作家がいるとしたら、よしもとばななは、たまにポツリポツリと読んでおれば、まだそんなに厭味が残らずに、それこそ「読後の爽やかさ」とかが残存するのかもしれない。今回3冊まとめて読んだのが失敗だったというか、本質が見えたというか。う〜ん、お愉しみが一つ減った気が少しばかりして残念


| るな | 本の愉しみ | 17:10 | comments(0) | trackbacks(0) | -
雨上がりに読書
突然の雨、そして雹。朝の散歩の途中、かつて麦畑だった野原でのこと。遮るもののない空の下、ダル3匹と駈ける。雹は霰ほどの大きさでさほど痛くはないが、雨とは違う感触にお犬たちは頭の上に???マークを乱立して、どうしたらいいのかわからぬ様子で私の周りをぐ〜るぐる。ものの5分ほどの通り雨だが、濡れに濡れた。

ひと雨ごとに草高し。巣立ち前の子兎が草に見え隠れしている。犬たちが時折、気紛れに追いかける。遊んでいるだけのような諦め方で、不意に走り止める。自然は緩やかだ。

森で水浴び

雨上がりに少しのんびりと本を読む。バルセロナの日本語図書館(寄贈と会費、ボランティアで成り立っている)で「雨天炎天」という村上春樹の旅日記を借りてきた。何故かその横に懐かしいカーヴァーの作品があったので、多分訳者名で並べてしまったのだろう、それもついでに。

彼の本は以前は随分読んだ方だけど、最近読んだ「アフターダーク」がさっぱり愉しめず、今回ちょっと手を出すのを躊躇したのだが、旅行記の「遠い太鼓」が面白かった記憶に魅かれて「雨天炎天」を読む。女と名のつくものはたとえ動物でも入れないギリシャ正教の聖域アトス半島での修道院を巡る旅なのだが、もう少し踏み込んだ話に行くのかと思いきや、やたらと天候の話ばかりだった。トルコ辺境の旅は何が伝えたいのか分からない。仕事として書く為の旅だからか面白くない。写真集の為の文章みたい。何だか逆に「遠い太鼓」をまた読み返したくなった。あれは夫人との掛け合いが良かったのかも。女は偉大。

カーヴァーは80年代に「ニューヨーカー」とか、アメリカの短編を読み漁った時期に「夜になると鮭は…」と「僕が電話をかけている場所」を読んだきり。あの頃は建築でも何でも「ポスト・モダニズム」なんて言う括り方が流行っていたっけ。久しぶりに読み返してみて、多分、昔読んだ時にも感じた妙にイラつく感じを思い出してしまった。基本的に酒や薬に逃げるという姿勢が嫌いなせいもあるが。

「ダンスしないか?」と「足もとに流れる深い川」は、あぁ、そうだった、という思い出が蘇る、心に残る逸品。特に「足もとに…」は、普通の人たちに潜む得体の知れなさが良く描かれている。

自分の中の謎を突き詰めようとする事なく暮らす普通の人々、そんな彼らの日々の生活の中で溜まっていく澱のようなものが、ある日不意に怪物のように、あるいは瘤のように自らの肉を食い破って、表面に「ぬっ」と出てくる。だが、それだけ。出現して消えはしない怪物を自分の影のように感じながら、何処から現れたのか、なぜ現れたのか、どうすれば消えるのか…、そんな自己分析は行われない。ただ存在を感じ、時に自分の中の怪物に飲み込まれそうになり(アルコール依存症が多いのはそのせいだろう)、それでもそこに座ったままだ。

アメリカの小説を読んでいて感じるこの無力感というか、やるせなさというか…、これはやはりベトナム戦争の後遺症なんだろうか。人は残酷になり得るし、時にそれを愉しむ事が出来る。その底にあるのも本質的な孤独なのだろうが、私には自己分析なしの孤独というのが、どうにも居心地が悪い。自分の中で失った精神のバランスが澱となり、ある日、自らに向けてその牙を剥く。だが出口はない。それは自分の中で育んできた怪物だからだ。救いのないメビウスの輪。

「ダンスしないか?」の最後、女の子が自分の中で感じた中年男との奇妙な、瞬間的なその一体感を伝えたくて、会う人ごとにシチュエーションを話すのだけど、やがて何も分かってもらえない事に気付いて口を噤む、というシーンが心に残る。彼女は心の深いところで何かに触れたのだが、それを伝える術を知らず、やがて伝えようという意思を放棄してしまう。「足もとに…」も、女は扉を開けて出ていけるのに、そうはしない。何も変わらないかの様な生活を、恐らくは続けられるだけ続け、ある日アルコール依存症になるか、神経症になっていくんじゃぁ、なかろうか。と思わせるような終わり方。そしてそれが普通の人々の暮らしであり、アメリカの静かなる狂気なのか。不気味な日常が背中合わせ。

ヨーロッパ的個のあり方と、アメリカ的個のあり方は違うのだろう。孤独の質感(あるいは量感か?)が微妙に違う気がする。何だかふっと、昔大好きだったカポーティの「遠い声、遠い部屋」を思い出した。そしてフィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の孤独も。アメリカの孤独はある意味、対人的なのかも知れない。ヨーロッパの内へ内へと向かう他者の入り込めない孤独とは、ちょっと吹いている風が違う気がしてならない。さて、私の風は何処から何処へと流れて行くのやら…

とりあえず、カーヴァーの本は「カ行」に戻すとしよう。カーヴァーはカーヴァーであり、村上春樹ではない事だしね。

| るな | 本の愉しみ | 00:54 | - | - | -
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