風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
<< 動物たちへの祝福の日 | main | 怒りと不愉快の狭間 >>
今日は風花、明日は雪
どうにか少し春の気配がし始め、芽吹いてきたねこやなぎを夫が散歩のついでに手折ってきてくれた。そんな春めいた日には行き交う誰も彼もが、長かった雨の後の晴れ間に心なしか表情が明るい。

だが、今朝は雪が舞った。風花だ。鈍色の雪空は懐かしい故郷の空を思い出させる。

帰国していた折も、よく雨が降った。日本の初冬の時雨は深々と足元が冷えた。そんな雨の一日、懐かしい人の記念館が出来たと聞き、出かけてみた。明治の歌人・山川登美子記念館である。

山川登美子と いっても知らない人がほとんどだろうけれど、与謝野鉄幹に見いだされ、晶子と並び称される 「明星」の歌人であった。彼女の生家が記念館になったというので、再訪することにした。高校の頃に文化祭の登美子研究で訪れて以来なので、実に35年ほどの時が 経っている。あの頃、私の持っていた暗い登美子のイメージと呼応するような、生け垣に囲まれ武家屋敷の面影を残していた庭は、何だかひどく明るくなってい た。奔放な晶子に比べ、あくまでも己に厳しく律せざるを得なかった登美子は、鉄幹から「白百合の君」と呼ばれ、「白萩の君」と称された晶子と鉄幹を競い 合った。“君が才をあまりに妬し”と晶子にその才能と美貌を詠ませながら、二十九歳で亡夫から移された結核が元で亡くなっている。

記念館は生家を公開したもので、実に保存状態良く手入れされた屋敷であった。同じ敷地内に新宅を建てられた山川家の寄贈によるものだという。生前に登美子 が使っていた懐刀や自筆のノート、短冊などが展示されていて、昔拙いながらも研究していた折、こういうものを実際に見せて頂いていたらまた違ったであろう なぁ、などと自分勝手な感慨を抱いた。ま、十八の小娘にどれだけ深く登美子の懊悩が理解できたか疑問ではあるが。



白芙蓉

私は登美子は「芙蓉の君」だと長い間思っていて、芙蓉のちょっと儚げな花を見るたびに、彼女の

わが息を芙蓉の風にたとへますな十三絃をひと息に切る

この歌を思い出し、この芙蓉の儚げなさに秘められた芯の強さに、何かしら若狭びととしての気概と云うか、誇りのようなものを感じたものだったが、実は鉄幹は「白百合の君」と呼び習わしていたという記述を見て、あぁ、そうだった、昔も何故か疑問に感じ、実は登美子自身も「白百合」と呼ばれる事に少しばかり思う処があったのではないか、と想像していた事を思い出した。白百合の気品を鉄幹は良家の武家育ちの登美子に感じ、そのイメージを押し付けたのではあるまいか。 そういう点では女の直観の方が優れていて、鉄幹が「白萩の君」と呼んだ昌子に対し登美子は、

それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ

と、紅い花を譲るに足るだけの、何処か強さを感じさせるイメージを抱いていたと思われる。大体において鉄幹というのはいい加減な男であったし、登美子はそういう男の本質的な弱さを鉄幹に見ていたのではないだろうか。晶子にしても、人を見出し批評をする才はずば抜けたものがあったにせよ、おのれ自身の才の輝きは短命であった鉄幹に対し、明治時代にあれだけのスキャンダルを引き起こした挙句に奪い取った男に対する自分自身への気概があり、それが彼女を奮い立たせていたのではないだろうか。彼女に楚々たる白萩を見たという鉄幹など、夢想の世界に遊んでいる男に過ぎない事を、登美子も昌子もとっくに知っていたという気がしないでもない。それでも女にとって、明治の時代にイメージ豊かに遊ばせてくれる男は稀であり、貴重であったのだ。そんな事を深々と冷える登美子終焉の間で、彼女が最後の時にも見ていたであろう庭に向かいつつ思った。人は三十になるかならずで逝った登美子を薄倖の歌人という。だが生き永らえて何になろう。歌は命の燃える時に詠まれるものだ。登美子は命が燃え尽きたのが若かったと言うに過ぎない。明治の時代、厳格な武家の娘としての教育を受けた彼女の生き様は、商家の娘としてその本質に奔放さ、節操のなさを持つ昌子とは違った生き様であったという事だろう。

おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな

登美子が詠んだ病の中の歌。不可避な運命に対する静かな諦め、服従、ストイックな内省。この歌が今、しみじみと心にさざ波を呼ぶ。若い頃は奔放におおらかに女性の性と自由を歌いあげた万葉的な晶子に共感を覚えたりもしたが、この登美子の静謐な感性は去りゆく者の感性であり、若い頃には解りえなかったものだ。年を経るのも悪いことではない。

館員の方が「髪長き…」の歌碑が小浜公園の入口にもありますよと言われ、はて、そんなのがあったかいな? 展望台のようなところに随分と無骨な歌碑があり、おまけに「北国人と歌はれにけり」とあって、若狭びとは北国人ではないんよね、おまけにこんな代表作でもないものをむりくり風土に押し込めようと歌碑に仕立ててと、むかし写真に撮りに行った時に反発したものだが、代表作と云われる浪漫的な明星歌調の新しい歌碑があるそうな。

別な日にぶらぶらと海沿いの公園に出かけてみた。冬の鉛色の海風に吹かれながら、探すともなくすぐに歌碑はあった。ま、妥当なとこか。

髪長き少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ



そこから更にぶらぶらと常高院に行く。休暇中の身の幸いはあてどもなく歩く事が出来ることだ。焼けた山門、国鉄と国道に分断された参道、山の上にある菩提所、というのが私の持つこの寺のイメージだったのだが、なんと山門が再建されていた。おまけに実にあっけらかんとした本堂まで。



何だかなぁ。ここまで息を切らして登ってくると、若狭瓦の街並みと海が見渡せ、後ろには焼け残った山門、というのが好かったのになぁ…。このお寺はかつての小浜藩主・京極高次の正室、常高院(織田信長の妹お市の方の娘、お初の方)の菩提寺で、確かに由緒ある寺ではあるんだが。あの荒廃した無住のうら淋しさが、実に好きだったのになぁ…。

あの荒れた感じに、流浪の俳人・尾崎放哉のイメージはよく似合っていたものだったが…。ここにも句碑が建てられたそうな。

波音淋しく三味やめさせて居る

階段を下りて少し行けば今もベンガラ格子を残す花街、三丁町である。そこを通ると三味を爪弾く音がしたものだ。小浜では六十句ほどを詠んだ放哉だが、その中に「うつろの心に眼が二つあいてゐる」「淋しいからだから爪がのび出す」といった、ちょっと萩原朔太郎的世界を彷彿とさせる句がある。放哉は終焉の地・小豆島のイメージが強いが、須磨や若狭など、光をたたえた海が好きだったのかもしれない。静の放哉、動の山頭火とよくいわれるが、こちらは逆転して海と山。放哉の影響をいち早く受けたのが山頭火だったがそうだが、さびしさは少し質が違っている。

まつすぐな道でさみしい


流浪、漂泊…、ひとりの男の生き様として、それは何なのであろう。放哉も山頭火も、何よりも愛したのは自分だったのであろうか。わたしは何処まで行ってもひとり、ということか。いつかひっそりと静かな森に暮して、晴耕雨読、さびしさは分けあえぬものと思いきって暮らせたら、心のざわめきは平穏を得るのだろうか。そんな事を考えた冬の一日。風花もやんだようだ。
| るな | 旅にしあれば | 16:35 | comments(0) | trackbacks(0) | -









トラックバック機能は終了しました。
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

このページの先頭へ