風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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紫の釣鐘草と苦い珈琲の時季
先日来、しつこいくらいにアンケート調査の電話がかかってきた。依頼ではなくほぼ強制。そんな押しの強さを感じさせる女性の声で「州政府によるアンケート調査」だというのだが、いかんせん家にいる時間を狙ってくるということは食事中だったり、もしくは調理中だったり、実にタイミングが悪い。向こうも仕事だからと働く女性の苦労は分かるんだが、こっちもご同様である。何度か断ったがとうとう捕まってしまった、しかも早朝仕事の後、久しぶりに昼寝を楽しんでいるというタイミングで。



頭の中がボワ〜ッとしたまま、いきなり早口の威勢のいいカタラン語でまくしたてられ、正直ムカついた。しかも内容が昼寝ボケには結構ヘビーだった。「カタルーニャにおける家庭内暴力の実態調査」 無差別検索で私が引っ掛かったのだそうだ。アンケートに答えてもらうまで諦めません、という態度なので否応もない。質問は「家庭内暴力を周辺で見聞きしたことがあるか」というのから始まって、「カタルーニャにおいて女性の権利は保護されているかどうか、そしてあなた自身が暴力を受けたことはないか」というものである。

私の世代は男女平等の幻想で息をしてきた世代である。同権に行くより、もっと手前の世代だ。我が高校は割に自由な気風ではあったが(全国で唯一ホーム制が残っていた)、しかし高校3年の時、女子生徒には家庭科の授業があった。そして1分間にきゅうりの1ミリの薄切りが正確に何枚切れるかという、実にくだらないテストをやっていた。で、その間男子生徒は何をやっているかと言うと、なぜか英語の授業だった。ムカついた私たちは「男子にも家庭科をやらせろ! どうして受験科目をやってるんだ!」と騒ぎたて、事態の鎮静化を図った学校側は結局男子生徒には体育の時間を振り替えた。男は強く雄々しく、女は家庭を守りましょう的対応にもムカついたが、グラウンドを走っている彼らを見て、少し気は晴れた。私たちは全く平等でなんかなかったのである。

そんな世代で息をしてきた女として、同世代の男たちを見れば、当然ながら彼らの意識は「男女平等」なんかではない事が分かる。うまくして「弱い性である女性は守るべき存在」という考え方、だがほとんどの男性には封建的意識が根強く残っているし、彼らの多くはその方が世の中のシステムはうまく機能する、と思っている。「女性は家庭を守る存在」という幻想は、消えることなく誰もの意識の中にあるから、共稼ぎであろうが出産育児、洗濯掃除に料理、みんな重く女性側に圧し掛かってくる。特に日本の場合、男の母親がその意識から一番脱することができないんじゃないかという気がする。自らもその辺の不平等を感じて生きて来た筈なのに、息子の話となると話は別、息子には「亭主関白」でいてもらいたがる母親が多い。女に迷惑をかけない男を育てる、という意識が不足してるのかもしれない。同性が最も手ごわい。

今回のドメステッィク・バイオレンス(DV)アンケート調査を通じて、何かしらの暴力の影に怯えたことがない女性などいるのか、という疑問が湧いた。質問の中に暴行、レイプといった肉体的脅威だけではなく、暴言、支配、恫喝などを親やパートナーから受けた事はないか、という精神的暴力を問うものがあったからだ。そして父親が暴力を振るう人物であったかという質問もあった。児童虐待を含む訳だが、父親が母親に暴力(暴言)を振るう姿を見て育ったかどうかも重要なポイントとして挙げられていた。子供と言うのは非常に親のストレスを受けやすい立場にいる、最も弱い存在だ。最近増えている母親とそのパートナーによる幼児虐待は、その典型的な例だろ う。肉体的であれ精神的であれ、虐待を受けた側は受け身となっていくしかない。その輪廻から逃れることは非常に難しい。暴力、暴言を振るう父親を見て育っ た子供は、精神的要因としてインプットされ、それが否定の方向に行くか是認の方向に行くか、攻撃性に出るか受動性に出るか、それは分からないけれども、潜在的に暴力の存在を認知しているの ではないだろうか。

自分の力を誇示できる立場にある男は、誰かを支配できるという気持ちによって己を支えているのかもしれない。例えば、わざと危険な運転をして同乗者に恐怖心を与えるのは、自分の支配力を見せつけようとする行為であり、誰かを支配する喜びを感じたいという欲望の表れだろうし、部屋のドアをノックこそすれ、返事も待たずにをいきなり怒鳴り込んでくるというのも、自分が相手に恐怖を与えることができるという満足感が深層心理にあるのではないだろうか。DVの大きな要因はストレスであると言うが、自分がストレスに曝された際に、自分より弱い立場の他者を力で支配しようとするのは、卑屈な行為である。

今の時代、ストレスを感じずに生きている人など僅かだし、女だって外で働いていれば7人とはいかずとも、3人ばかりの敵はいるご時世だ。今や相手よりいかに早く「ストレスが…」と言うかが大事なんじゃないかという気らする。自分のストレスばかりを言う人物は、己が相手に与えているストレスには存外気が付いていないものだ。自分の弱い部分に踏み込ませないための、いい防御柵のようなものかもしれない。 

スペインはDVが多い国だ。マッチョ志向(つまり亭主関白思想)が強い国だし、やはり母親が息子に異様に甘かったりする。今まで表に出にくかった事件が、この7,8年で非常に多く取り上げられるようになった。DVを受けた女性たちのシェルターも増えたし、口を噤んでいてはいけない、声をあげよう、という政府広告も頻繁に見かけるようになった。それでも子供の目の前で、元妻にガソリンをかけ火を付けるようなショッキングなニュースは後を絶たないし、潜在的なDVは至る所にある気がする。とどのつまりは、ひとりで生きて行ける自立した男が少ない、という事なのだろう。母親に依存し、パートナーに依存し、自分が強いという幻想を抱かせてくれる事を相手に求め、それが満たされないとキレる。そして弱い立場のものを攻撃する。そんな構図が見え隠れしてくる。




そんなこんなを考えていたら、偶然にも私の目の前で村上春樹の「1Q84」のBook1とBook2を返却した人がおり、2冊揃っている事はなかなかあるまいと重いのを抱えて借りて来た。読む前に書評などは読まない主義なので、この中に家庭内暴力や児童虐待が盛り込まれているとは知らなかった。だが村上春樹が描く性と暴力はどこか乾いてリアリティがない。彼の描くセックスは昔から濃厚そうに書かれているが、ただ解剖学的に露骨なばかりで、なんだかまことにさっぱりすっきりした後味である。子宮が疼くという事はないなぁ、まぁ、官能小説じゃないんだけども。読んでいる途中でBook3が出たと聞き、続きがある物語だというので取り敢えず3を読んでみないとどうとも言えないが、青豆と天吾のセックスは手を繋ぎあって互いを慰撫する究極の交わりになるんだろうか。

村上作品の登場人物は自己完結型であり、他者に求めるものが少ない。いや、少なかったと言うべきか。ギャッツビーの世界のように淡い孤独と、モノトーンな喪失感、そしてそこに一点の色を求めてやまない軽い焦燥。「ノルウェーの森」の女の方がはっきりと喪失されたものがある分、エロティックだったなぁ。(もうあんまりよくは覚えていないけど)、狂気というのはエロティックの真髄なんだという事が分かる。社会に関わることなく自分の尻尾を噛む蛇のように、疑似自己完結型の堂々巡りの世界だった村上作品が、二極対立的な解りやすい社会構造に何故係り合いを持とうとするのか。今までの彼の完全虚構の世界にあったリアリティが感じられないのは、暗喩どころではなく直喩されているような人物や集団などの、すでに存在したものたちのリアリティの方が強いからなのか。

ふかえりと青豆、天吾というトライアングルは、誰が本当のパシヴァ(知覚するもの)であり、レシヴァ(受け入れるもの)であるのか、その表裏一体の面白さの気がするのだが、これこそがメビウスの輪なのかもしれない。

だがそれにしても10歳というのは大きな意味合いを持つ年齢だ。自我が芽生え、自分の中の破壊性に気づく年齢であり、己に掛けられた呪縛を解く為に1歩が 踏み出せるようになる、そんなお年頃。父親なるものはまず最初に破壊し踏み越えるべき存在なのだという事に気づき、昂然と立ち向かわねばならない。そして 母親なるものは、その破壊された屍に根ぶとく咲こうとする花であり、いかなる形であれそれは子が摘み取らねばならない。それ以外に自我はない。というよう な事を、暑くなり始めた午後の陽射しのなか、自分の10歳のころの記憶に重ね合わせながら、薄ぼんやりと思うのでした。

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 五月が過ぎ、六月が来て私らの皮膚に柔軟やはらか なネルのにほひがやや熱く感じられるころとなれば、西洋料理店レストラントの 白いテエブルクロスの上にも紫の釣鐘草と苦い珈琲(コーヒー)の 時季が来る。     
白秋
| るな | 本の愉しみ | 10:07 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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