風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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贈り物の想像力
立春も過ぎ、朝未明の空気にアーモンドの花の香りがする。もう菫が咲いている。花は季節の贈り物。



クリスマスも終わり、冬物バーゲンも一段落、世間はどうにか平常を取り戻しつつある。今年のクリスマス商戦は低調で、バーゲン自体の売れ行きもシブイらしい。最もこんなに温かくなっては、もう冬物という感じでもない。この季節、何といっても色に目がいく、もうそろそろ明るい色が着たい。

いくらなんでも着なくなった服を処分しようと思うのだが、破れている訳でもなく、そのまま捨てるのには非常に抵抗がある。例えばタオルやシーツなどは、犬の足拭きやら何やらに使いまわして、ボロボロになって納得して捨てる事が出来るし、子供服などは友人の子供たちに着まわして貰えるので、(今は私に回ってくる)罪悪感がないのだが、どうも私は布地を捨てるのに抵抗感が強いのだった。裂き織りにしてとか、パッチワークにしてとか、何かに使えるとイメージしてしまうと、もういけない。そんなこんなで溜まるのだが、あぁしたい、こうしたいと思う事をかなえる時間がない。やりたい事が山のようにあるのに、何故かいつも時間がない、という、まぁ、脅迫概念的なんですが。

昔、息子が日本人学校の補習校に通っていた時代、年に一度の文化祭にチャリティー・バザーのようなものがあり、古着を出してください、というお触れが来るのだが、クリーニングした状態で、とあった。クリーニング代を自己負担してまで出す人というのは、どのくらいいるもんだろうかと、シブイ計算をする関西人のアタクシは思ったものだ。日本人はどうも古着を人にあげる事に、妙な衒いと恥ずかしさを感じてしまうようで、気軽にホイとはあげられないみたいなのね。古着でも着物となれば話は違うのかもしれないけど。

バルセロナには古着ポストがあちこちに設置してあって、ユニセフの古着屋さんも何店もある。ゴミとして捨てるには抵抗がある服がたまって、何かに作り直したくても出来ないストレスがたまると、私はまとめて、何処かで誰かを温めてくれる事を願って、えいやっとこのポストに入れる。この古着ポストは靴もOKで、なるほど、古くとも靴が貴重な人たちもいるのだ、確かに。



日本では「タイガーマスク現象」が話題で、あぁ、こんな形で自分も寄付が出来るんだ、と気付いた人たちが多いそうで、それはそれで結構なことである。よく言われる事だが、欧米諸国ではキリスト教に則ったチャリティー
(慈善事業)という感覚が身についているようで、成功した人がど〜んと寄付をするというのは、社会還元の観点もあるだろうが、寄付をして初めて本物、といった成功者感覚もあるのだろうと思う。政治に携わる者にはなくてはならない感覚である。お金持ちの政治家が自分ちの庭でパーティをやるのも結構だが、そこから一歩チャリティーに繋げる事が出来ないのは何故なのか。

そもそも日本の贈り物は、江戸期に生まれた中元、歳暮といった時候の挨拶的なものが主で、誕生日やクリスマスに親しい人に贈り物をするというのは、ごく新しい習慣で、習慣である以上それに伴う心意気が、まだこなれていないのだろう。モノが豊かになった近年、バレンタインデーやら、訳の分らぬホワイトデーまで出現し、おまけに恋愛感情を対象とする贈り物にさえ「義理」が発生するのが、何とも日本的。

それやこれやを考えると、日本人とは「贈り物をする想像力」に欠けているのではないか、と思わざるを得ない。誕生日やクリスマスといった、現在においては礼儀とも思える贈り物(「親しき仲にも礼儀あり」というではありませんか、ねぇ?)を愉しむ余裕がないのは、やはり相手に対する想像力の欠如なのではあるまいか。もしくは自分の想像力のなさ、貧相さを見透かされるのを恐れて、とか?

贈り物は、自分の想像力を広げてくれる素敵なアイテムだ。いくらお金を掛けてあっても空々しいモノでは嬉しくない。高価なプレゼントをしてこれで穴埋めとか、気を引こうとかするのは、虚しい所作である。贈り物は日常生活の中に、ちょっと非日常的な、異次元的な風がす〜っと通り過ぎて行く、という感じがいい。そういうものは小さくてピリッとしている。そう云うモノを送り合える関係が持てたら、とても素敵だろう。恋人とはそういう為にあるべきで、義理チョコだのに金も気も、使う必要など一切ないと私は思っている。




恐らく贈り物というのはある意味、その人の中のバランス感覚を表すものだと思うので、贈って贈られてというバランスを当然とりたがるものではなかろうか。無償の行為、というのはチャリティーであって、通常の人間関係の贈り物とは意味合いが違う。チャリティーは「タイガーマスク」でいいが、個人的な関係は「誰が誰に贈る」のかが大事だ。そこに想像力が生まれる。今回の「タイガーマスク現象」でいいなと思ったのは、「誰が何を必要としているか」という、贈り物とチャリティーがいい塩梅に溶け合っている点で、贈り物をするための想像力も生かされている。多くの人がそこに気づかされた事も、現象にまで至った要因ではないだろうか。

しかし贈り物は難しい。やたらと自分の趣味の手作りをプレゼントしたがる人も、はっきり言って迷惑だ。手作りの品というのは使い勝手が悪いと、捨てるに捨てられぬお荷物になる場合が多い。かくいう私もモノづくりが好きなので、単純に手を動かす喜びに浸っていき場のない作品が増える、という当然の帰結が分からないではない。姑が亡くなった時、そういうものが彼女の家じゅうに溢れかえっており、後片付け一切合財を任された私はひどく嫌な思いをした。のめり込むようにして作っていたのだろうと想像すると、捨てる行為がとんでもなく重いものとして跳ね返ってくる。モノを片づける、捨てるという事が出来ない人間は、自分がいなくなった後も誰かに迷惑を掛ける事になるのだという教訓を得て、それ以降、後に残しては重かろうモノは、出来うる限り整理していこうという気持ちが生まれた。

昔、私は引っ越しが好きだったが、それはある程度モノを捨てて身軽になれる良い機会だった。だんだん何事も億劫になってきているのは、やはり私という本来の人間を考えると、決して良くない事なのではないかと最近思う。人間関係も含め、あらゆる意味でシンプルでいるのが心地好いし、もう残り時間の方が少なくなってきた年齢を考慮すれば、そろそろ片づけに入ってもいい頃合いなのかも知れない。何にもモノを残さない、というのが理想かも。

それでもモノは減らない。おまけに本も捨てられない。捨てられないモノが増える事は、決して心地好い事ではないと解っているのに、である。やれやれ…。

画像は春の色合いのブーケ。お花も贈り物の重要なアイテム。迷ったら花を送るのは知恵だと思うが、そう言えばお花も貰わなくなって久しいなぁ。



| るな | 雑記 | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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