風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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無常との隔たり

6月は私の誕生月で、日本に暮らしていた頃はちょうど梅雨入りの時期と相まって、蛍や紫陽花という瑞々しげな風情がつきものだった。スペインではこの頃あいは夏の日射しが降り注ぎ始め、かといってまだ暑すぎもせず爽やかな良い時候なのに、何故か今年は中旬まで念のために傘を持ち歩く日々が続いた。西欧のアジサイは土壌の関係からかピンク系が多く、雨に濡れる日本の青紫系統の紫陽花とは趣が違う。私は幼い頃から山で見慣れた、日本原種の額紫陽花の方が好きで、あの儚げが山の中には似合っている。そういえばシャガもこの季節だったろうか。



ちょうどその頃、今年の「カタルーニャ国際賞」を村上春樹氏が受賞し、日本ではそのスピーチが随分と話題になったようである。こちらの新聞では全文が紹介される事がなかったので、私も後日になって日本のネットで全文を読んだ。政治的発言を彼が行ったのはこれが2度目という事で(イスラエル賞受賞の「卵と壁」)、自分の発言が話題性を持つことを重々承知している彼が、何故海外でしか発言しないのだろうか、という素直な疑問がまず頭に浮かんだ。

これはある意味で、日本のメディアを信頼していないからなのか、もしくは日本人は海外から逆輸入式のメディア情報をありがたがる、というのを考慮してなのか。この全文記事の中で“効率”を大きく書いているのは、NHKの姿勢なのか?メディアの中立性というのはアブナカシイものである。

地元紙の「LA VANGUARDIA」の記事では、日本人の美を生み出す根源となっている”無常”という概念、“効率”の功罪、“非現実的な夢想家”としての立場を保つことの大切さについて触れられていて、そして「わたしたち日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の個人的な意見です」という一文は、"los japoneses  deberíamos haber seguido oponiéndonos a la enería nuclear" 、直訳すれば「わたしたち日本人は原子力エネルギーに対し反対し続けるべきだった」となっている。(注:LAVANGUARDIAのネット版では、"Los japoneses deberíamos haber renegado de la energía nuclear y no deberíamos habernos dejado guiar por el criterio fácil de la eficiencia" −直訳:日本人は原子力エネルギーを拒絶すべきだった、そして効率の安易な基準によって導かれるべきではなかった )

「核」と「原子力エネルギ―」では違いがある、と私は思うが、それは「ヒロシマ、ナガサキ」という原爆の記憶がすりこまれているせいなのかもしれない。ヒロシマ、ナガサキ→フクシマという構図に関しては、「原発建設は人命軽視の姿勢を示すもので、広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」だとする大江健三郎氏の発言が既にあるが、今回の村上春樹のスピーチは、所詮「非現実的な夢想家」としての、実現不可能と解っているけど知識人としては一応言っておかなくちゃなぁ的、発言なのだろうか。もともとこの人が政治的発言を行う事自体が“意外”という印象があり、レトリックを使った曖昧なスピーチと受け取られることも承知のうえでの発言なのだとしたら、それは村上スタイルによる議論を巻き起こす方法なのだろうか。だが、私が懐疑的になってしまうのは、種だけ蒔いて、水もやらねば刈り取りもしない、それこそが村上スタイルなんじゃないのかしらん、と感じてしまうからだろうか。

−日本の技術力神話の崩壊と同時に、そのような「すり替え」を許してきた、私たち日本人の倫理と規範の敗北ー。と村上は述べているが、民主主義の名のもとに選挙を通してこの国策を支持してきた以上、確かに日本人全体の連帯責任である事には間違いがない。歴史の繰り返しを容認してきたのは我々自身なのだという、その認識の低さこそが問われるべきなのだろう。


授賞式前日のインタビュー記事に「私は小説家であり、常にそう意図している訳ではないが、時には人を勇気づける事が出来る小説を書く。今、次の小説では人を元気づけるものを書かなくてはと感じているんだ、まだ方法は見つかっていないが、やるつもりだ」という一文があって、私はこの一文がいちばん興味深かった。彼が意図的に人を勇気づける小説を書く―、そしてそれが今回のスピーチに対する水やりであり、収穫となるのだとしたら、村上春樹という小説家は変わりつつあるのかもしれない。ただし、私のはスペイン語からの直訳であり、他言語に対し英語版からの翻訳しか認めないという村上スタイルから言って、これが正しい本意なのかどうかは分からない。あ、でもこれは英語でのインタビューだったのかな? だとしたら二重の誤訳にはなっていないかも。

この秋にはそろそろ「1Q84-3」が読めるかなぁ。長い3部作の後、「今はただ思考しているだけ。恐らく1年ほどしたら(人を勇気づけるものが)書けるだろう」と言っているから、その前には読んでおきましょうか。





この4月に夫が二度目の手術をした事もあって、目の回るようなどころではなく、まさしく目を回しながらの日々が過ぎた。4月末の大型連休から6月いっぱいフル回転の忙しさ。6月に入って息子が夏休みになり、犬の散歩の肩代わりが少し頼めるようになって、どうにかひと息つけるようになったと思ったら、今度はいきなり猛暑。8月の暑さが容赦なく押し寄せ、外歩きの身には急激な変化が堪える。お犬の散歩も極力早朝にしてはいるが、時には朝の4時に出して仕事に行き、夜までは間が空きすぎるので仕方なく日盛りに出す事になる。照りつける太陽の下お互いぐったりだ。一面の緑だった鬼あざみ軍団が枯れ始め、何やら壮絶な風景。

枯れ薊敗残兵のごと立ち尽くす


この陽射しの下では、緩やかな思考などとてもできそうにない。ムルソーが太陽が眩しかった、と述懐するのも、告解を拒否するのも、現代の我々から見れば既に不条理でも何でもないのかもしれない。初めて「異邦人」を読んだ時の、奇妙な安堵感というか、あの違和感のなさというのが、なんだか懐かしくさえある。不条理とは高度の滑稽、なんだそうな。我々はナンセンスの「時代」、ではなく、「世界」に生きているのだ。自分で自分を笑えるのが余裕だと思っていたが、嗤う事が多くなるとムカつく。あぁ、厭だ。



そう言えば、去年の今頃は仔犬がいて乳母仕事に追われていたっけ。満1歳を迎えた仔犬たちはありがたい事に、みんな素敵な家族のもとで幸せに暮らしている。あれはあれで何だかんだありながら幸せで、狭いながらも楽しい我が家〜、という懐かしい世界。高田渉氏も既にいない。




雨の季節になると「あんまり雨が降りつづくものだから…」という懐かしい歌を、口ずさんでいる自分に気付く。でもその後の歌詞が思い出せない。お気に入りだったのに。でも「私の青空」が続けば、それはそれでよし。季節は巡り、人は流れる。ちょっとお気に入りのワインでも飲んで、ジャズでも聴きましょうか…


| るな | 雑記 | 10:15 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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