風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
<< 夏の風邪ひき | main | Grau Garrigaへのオマージュ >>
贅沢という風が吹く
イギリスはいいなぁ、なんて暢気な事を書いていたら、そのイギリスがエライ事になっており、友人たちから「息子が帰ってきてて、良かったねぇ」と言われる始末。やれやれ。追跡調査で捕まった暴徒の中にはテニスコート付きの家に住み、イギリスでもトップクラスの学業優秀者たる小娘(新聞には名前まで公表されている)もいたんだそうだ。低所得者層の若者たちによる反社会的行動、とひと括りに出来ない根深いものがあるのだろう。



こんな風にチューブのなかで母親が子供に本を読んでやっている、あのもの静かな英吉利的英知が好きなのに。


さてと。古本市で1冊1ユーロで買い漁ってきた本の中に、森茉莉の「贅沢貧乏」があった。私はこの人の本は翻訳ものの「マドモアゼル ルゥルゥ」を読んだだけで、昔懐かし薔薇十字社から出ていた。装丁がすごく凝っていた覚えがある。あの本は今、何処にあるんだろう? 覚えているのはそんな事ばかりで、内容に関しては全く記憶からとんでいる。大体にしてからがこの「贅沢貧乏」も「貧乏贅沢だったけ?」というようなうろ覚えさなのだ。

−華麗な想像力、並外れた直観力と洞察力。現実世界から脱却して、豊穣奔放に生きた著者が全存在で示した時代への辛辣な批評。…豪奢な精神生活が支える美の世界− これが文庫本の裏表紙に書かれた紹介文。森茉莉は文科系女子に人気なんだそうだが… ほんまかいな。年老いた老獪な黒猫の辛辣さなんぞ、そうそう解るお嬢さんがいるとは思えんのだが。

時々凄く好いセンテンスがある。しかし「贅沢貧乏」だけならまだしも、エッセイ集の全編を読んでいると少々草臥れる。昔、フランス宮廷では豪奢なドレスを身に纏った麗人たちは、庭の物蔭で用を足し、風呂なんぞに入らず香水を雨水のように降りかけて自らの体臭を濃厚な薔薇にも負けじと練り上げていた、そんな匂いが立ち込めてくるようで、強い匂い(森茉莉的に書くと香い)は私の頭を眩ます。強い香いであればある程、すぐに鼻が馬鹿になるのだ。森茉莉にとっての欧羅巴とはフランスであり、反社会的なもの、反カトリック的なものといった耽美主義が横溢していた19世紀の巴里なのだ。そう言った豪奢な時代(豪勢という近代ではなく)の欧羅巴を垣間見、そこに自分の残り人生の全てを凝縮してしまった金髪くるくる巻き毛のおフランス人形みたいなのが、ずっと老嬢になるまで体内に息づき、自分の絶対的審美眼を教会の中のロウソクのように揺るぎない信仰心で灯し続けたのが森茉莉だという気がする。というと、やっぱり不気味な老嬢なのだが、何処か無心さというものがあり、それが老獪さとうまく噛み合わされて、嫌味なんだがけれんみのない、ばあさんの愚痴であるようでいて、なかなかに子供や孫を甘やかしているように思える佐藤愛子よりは、怒り方が小気味が好い。双方共に文学者の娘であり、大甘に父親に溺愛されて育ったのだが、その美意識、社会との接し方は極端に違う。だが、双方に似通っているのはその潔さとも云うべきもので(潔さの質が少し違うのだが)、育ちというものを彷彿とさせる。



私にはこういう父親を溺愛する娘の心理は不可解だし、結婚生活が不具合なものとなり、その後いささかきっぱり過ぎるくらいに潔く(森茉莉は子供も置いて家を出ている)、ひとりナルシズム的生活を送るという事は、何だかそれはそれで現実離れした胡散臭いものにも思えるのだが、彼女の悪徳ならぬ「道徳の栄え」を読むとなかなかに愉快である。

―私は訪問というものがしんから厭である。主人の部屋も、応接間も、飾ってあるものも、花も、食べるものも、会話も、玄関も、どこの家も同じだ。時事問題について言う感想も、同じだ。だから日本では訪問する必要もないし、話を交える事も全然無駄である。…全て会話のルウルがあって、厳然としており、一寸ルウルから外れると、妙な顔をされ、私だけ尻尾でもあるような具合になる。私はもう人々の会話も、感想も、全て分かっているから、会話は交える必要がない。ー 人との集まりが苦手な私は、思わずくすりとしてしまう。夏に付き物の同窓会とか、すごく苦手だ。

だが、人との交際(つきあい)を絶ってしまったかのように見えて、なかなかにこの人は文壇好きで、毎日何種類もの新聞を読み、週刊誌が大好きというミーハーなお婆さんでもある。芸能界のゴシップにも詳しいし、TVを見ての突っ込みも全開だ。「贅沢貧乏」の中にもふんだんに使用されている、この、見たくないものは見ないで済ます、という手法は老眼的手法である。遠くのものは美しく見えるが、手前の塵芥は薄ぼんやりして、意識をちょっと飛ばしてやれば気にならなくなる。ここら辺りにいわゆるオバサンパワーが産まれてくるんではないか、と私は密かに思うのである。オバサン独特の個人主義は、その視点がちょっとずれて辛辣に面白ければ持て囃されるが、単なる放談であれば何ともつまらない。

私は豪奢なものが決して好きというのではないが、豪華絢爛の中にだけ贅沢があるわけでない事は識っている。人生の中のちょっと質の良いおかしみや哀しみ。そんな風な、時に贅沢という風が精神(こころ)の中を吹き渡っていくと、私は晴々とする。

森茉莉を読んでいたら、何故か急に白洲正子の本が読みたくなってきた。西風、東風。やがてつむじ風。



ところで耽美派と言えば荷風や谷崎は割に好きな作家だが、私は三島はあまり好きになれない。だからその三島が絶賛したという森茉莉の小説も、実はあまり読む気になれない。ま、本のとっかかりなんぞはそんなものかもしれない。そう言えば、森茉莉が自作を戯曲化した三輪明宏を痛烈に扱き下ろしたようだが、私は三輪明宏の「黒蜥蜴」が好きであった。三輪の緑川夫人=黒蜥蜴がハマり役であったように、明智小五郎役は天地茂以外には思い浮かばない。今の三輪明宏の開き直ったようなけばけばしさは嫌いだが、「ヨイトマケの唄」を歌っていた彼(丸山明宏)は美しくてカッコ良かったし、三輪の中の男の部分が醸し出す黒蜥蜴の妖艶さも大好きだった。江戸川乱歩―三島由紀夫―三輪明宏の怪しいライン。昔の丸山明宏は本当に麗しかった…。しかし、彼の中のプロレタリアは何処いったんだ? なんであんな今様丸山花魁みたいになる?

話はとめどなく流れるが、この「ヨイトマケの唄」が民放では長らく放送禁止曲だったとは知らなかった。逆にNHKは一度も禁止曲に指定した事がなかったそうだが、土方というのが差別用語になっているのも、放送禁止用語になっているとも知らなかった。岡林の「手紙」や「チューリップのアップリケ」はそうだろうなと察せられるが、赤い鳥の「竹田の子守唄」も今は禁止曲なんだと。竹田の子守唄が被差別部落に関わる歌だという認識が、あの当時あったのだろうか。中学生だった私は単にFolk Song(民謡)だとばかり思っていたが。差別はあると幻想する者の中から生じてくる。同性愛者への差別は少なくなってきたようだが、ホモはまだしも、レズビアンはまだ駄目って感じがしないでもない。その辺にもおかしな差別がある。あたかもゲイは文化的だが、レズはねぇ…、って感じ。なんでだろ?

今日からマドリッドではローマ教皇を迎えて、国際カトリック教信者青年総会が開かれる。そしてバルセロナでは国際ゲイ総会が開催されるんだとか。世界は光に満ちている、のかな?
| るな | 本の愉しみ | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) | -









http://dalks.bosquedesantcugat.com/trackback/1135938
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< April 2019 >>

このページの先頭へ