風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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とりあえず「猫の町」行き列車に乗ってみるか?
日本からの荷物が送りにくくなった。税関で足止めを食い、煩雑な手続きが必要になったらしく、一時帰国した際に、本を段ボール箱でどんと送るという事が困難だ。必然持って帰ってくる本は、重量と読み応えとを鑑み、さらに食料品と天秤に掛けられることになる。極力単行本は日本にいる間に読んでくることにしているのだが、他にも読みたがる人がいるだろうからと、今回は村上春樹の「1Q84 Book3」を、日本から持って帰ってきた。内心「重いなぁ」とぼやきながら。どうせ持って帰るのだからと、こちらに帰ってきてから読んだのだが…、食料品を持って帰ってきた方が良かった、かも。



この「1Q84」の中に出てくる「猫の町」からは、朔太郎の「猫町」がすぐに思い浮かぶ。猫神に憑りつかれた「憑き村」、猫の精霊ばかりが住んでいる村が、この宇宙の何処かに存在していると確信する、詩人の魂の掌編。以前にはコカインなどを使ってトリップしていたのだが、散歩中に故意に知らない道に入り込んで方向感覚を失う、つまり「迷子になってみる」という安上がりで健康的なトリップを愉しむ術ーそれは方位の感覚を失うという、知覚の疾病「三半規管の喪失」のせいだそうだーを身につけた主人公が、それによって迷い込んだ猫町。方向知覚が欠如している気味のある私には、妙に納得のいく話だった覚えがある。この掌編の中でも確か「商店の看板」が知覚の境目になっていた。

「1Q84」に出てくる、帰りの列車が止まらない「猫の町」、お祓いが必要な町。「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町」、その「猫の町」を出ていくように天吾の背を押すのが、「一度殺されたことがある」という看護婦で、これは父親の遺品の中にあった唯一の家族写真で初めて対面した彼の母親に似た顔立ちをしており、彼女の持つ記憶(見知らぬ男に首を絞められて殺された)と、天吾の母親が絞殺されたという事実は類似している。彼女は言う、「天吾君は暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい、そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない」と。これって、とても母親的な言葉だ。あの「猫の町」には猫の精霊になってしまった天吾の母親、男と逐電し絞殺された女が住んでいるのかも知れない(看護婦に生まれ変わって昏睡状態となった元亭主を看護してるなんて、独特のアイロニー!)。その「猫の町」で、父親は己の唯一の存在理由であるNHKの集金人であり続けようとし、それを息子に否定されて生命を維持することを放棄する。母親である看護婦は息子を外へと開放する。あの「猫の町」には時空を超えた川奈天吾の家族がいたのだろう。



何も失うものがなかった青豆、男の命を救うために自らの命を絶とうとしていた青豆、孕んだ「小さなもの」を護るために外へ出ていく青豆。ふむ。そういえば夢の中で、裸で風に晒されつつ首都高に立つ彼女にコートを着せかけた「銀色のメルセデス・クーペの上品な中年女性」は、天吾と青豆が首都高への階段を昇り、月が一つの世界に出たときに、運よく空のタクシーを捕まえる事が出来た原因の女性でもある。タクシーのお客が隣車線に「銀色のベンツのクーペを運転していた女性」の知り合いを見つけ、そちらに乗り換えたが故に、空のタクシーは天吾と青豆の前にやってきたのだ。それは「麻布の屋敷に住む老婦人」を彷彿とさせる、善き護り手だ。ここにもまた母親的なものがある。

生憎なことに抹殺される羽目に陥ってしまった牛河が、最後の瞬間に見たのが絵に描いたように幸福な家庭をイメージさせる「庭のある一軒家で遊ぶ子犬」だったというのも、何だかアイロニーを感じさせる。プロである以上、尻尾を捕まれたら処分は致し方ない、それがプロとして生きる心構えだ。正直に話したから助かるなんて思うのは甘い。ふかえりの眼に射抜かれてしまった牛河は、二つの月が見える世界に入り込み、リトル・ピープルたちの温床となった。彼の存在意義はそこにあったのだろう。彼の髪の毛を使って紡がれる「空気さなぎ」は何を宿すのか? 彼が最後に見た子犬だったりして? それは邪悪なものなのだろうか? そしてもしかしたら、天吾の父親も二つの月を見ており、ベッドに横たわる肉体は彼のマザであり、影のドウタはNHKの集金人となって、リトル・ピープルの媒体として青豆・ふかえり・牛河という身を潜めている同類を攻撃していたのかも。それを息子によって否定された以上、存在するは許されないことだったのだろう。あたかも神話的世界の父親殺しに通じるように。

首都高への階段を昇り、月が一つの世界に戻ったかのような天吾と青豆。そこはガソリンスタンドの虎の向きが左右逆になっている、もう一つの世界だ。天吾と青豆が出会うために月が二つの世界が存在したのなら、二人が出会った後は当然ながら、月が一つでも、別な三つめの世界でなくてはならない。小さなものを護りながら、新しい世界で生きていく決意に至ったのは、村上春樹の小説世界ではもしかしたら画期的なことで、ピーターパン的世界から一歩、大人の世界に歩みだしたかのようなものなのかも知れない。ワタクシ的には、まぁ、ちょっと中途半端なラブ・ストーリーだったなぁ、という感じか。ほら、恋愛って、消去法で成り立ってるものじゃない? 選ぶ事が出来なくなったらゲームオーバーみたいな。必然になってしまった天吾と青豆のラブストーリーは、何だか小奇麗になってしまったのよね。必然のラブではオモシロくない(個人的な好みですが)。だが、男より素早く大人になっていく女にとって、いつまでもピーターパンな男はいかがなものだろう?



だが、ふかえりを媒体として成就した天吾と青豆の「子を生す儀式」から産まれてくる子は、やはりマザとドウタとかの関係でしかないのだろうか。そうだとしたらツマラナイことだ。「1Q84」では、ふかえりや青豆、そして天吾のように、10歳ごろに親という存在から否応なしに何かしらの力の脅威を受け、自分の中の何かを喪失したものが「ドウタ」を持つ、つまりは損なわれた部分がマザの「心の影」として分離して在るのだろう。言い換えれば、自己分離を経て、自己が再構築されるステップを踏まぬ限り、二つの月を一つにはし得ないという事だろうか。二つの月(マザとドウタ)を一つにできないと、森に棲むリトル・ピープルたちの通路になってしまう。二つの月を見て、分離したまま死んでしまった牛河のように。これって、やっぱり村上春樹的教義本なの?

しかし「1Q84 Book1,2」を読んだのはもう1年半も前で、印象すらほとんど薄れていたし、やっぱりこういうものは全部まとめて読んだ方がいい気がする。「Book3」が出るのを知っていたら、揃うまで読まなかったのになぁ。踊るあほうにもなれんかった、と反省。




ここにお借りした猫は、バルセロナ在住の友人・緒田原文子さんの作品からやって来ました。こういう太平楽な猫の町なら、しばらく暮らすのも悪くはないかもしれない、なんて初夢的に思うのでした。今年も愉しむぞ〜!
| るな | 本の愉しみ | 15:15 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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