風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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映画を見に行く

週末になるとスペインでは、映画館に行列ができる、今も。無論全てではないけれども。ビクトル・エリセの「エル・スール」の中に、やがて自己破滅していく一人の男(主人公エストレージャの父親)が、昔の恋人が出演している映画を見にこっそりと映画館に行き涙を流す、という自慰行為的シーンがあったが、その映画館はまるで晩夏の回転木馬の如く、消え行くものの存在を愛おしむかの様に、靄のかかった荘厳でもの悲しい輝きを放っていた記憶がある。



回り続ける回転木馬、空には壮麗な花火、何処かから聞こえる子供たちの賑わい、あるいは祭りの夜店の裸電球の心浮き立つような、やがてはうら淋しいあの輝き、そんなものがごっちゃになったようなもの哀しく心の疼く心象風景。闇に点滅する遠い記憶。私がその映画を見たのは、スペインに来る直前の1985年で、それきり見ていないから、もしかするととんでもなく記憶違いなものかもしれない。味気なくも便利なシネマ・コンプレックスが増えていく中で、あぁいう「お出かけ」気分にしてくれるハレの場たる劇場型シネマは少なくなってしまった。

最近は忙しいのと、スペインでは昼間に映画をやっていないので、ふらりとは行き辛いこともあってなかなか映画を観に映画館に足を運ぶことが少なくなった。たまの休暇、心がすとんとエアー・ポケットに入った様な空白の隙間に息子のお奨めDVDを見るくらいだが、ずいぶん前から勧められていた「Vフォー・ヴェンデッタ」を、たまたまスペイン全国で「増税反対、緊縮政策、公務員カット反対」の大型デモが行われた日に見た。



今回のデモはスペイン全国80ほどの都市で一斉に行われた。バルセロナで主催者側40万人(警察側4万人)、マドリッド主催者側80万人(警察側4万人)の参加者。えらい差があるもんだ。鉱山への補助金63%カットを打ち出した政府に対する、アストゥリア地方からの鉱山労働者の抗議行進「la marcha negra(黒の行進)」が、首都マドリッドへと行進を続ける中、多くの支持を得た。これに続く形で今回の全国一斉デモが呼び掛けられ、この中には公務員(消防士、警官も含む)が多数参加したのは当然だが、劇場や映画関係者も抗議行動を行った。何しろ8%だった税金が21%に引き上げられるのだから、文化芸術部門にとっては大きな痛手だ。一般庶民にとっては「銀行のヘマ、政府のヘマのツケをこっちに回すな!」と言いたくもなる。日本だってそうだった。バブル崩壊のツケは、我々フツーに働いている人間に回ってくるようになっているのだ。



では、我々フツーの人間には顔がないのか? このガイ・フォークスのマスクが我々を代表する顔なのか? という突込みは措いておくとして、私はこのマスクは「アノニマス」のマスクなんだと思っていたら、映画「Vフォー・ヴェンデッタ(V for Vendetta−復讐のためのV)」で使われたガイ・フォークスのマスクを借用していたのだった。しかも原作がイギリス・コミック(息子曰くコミックを読んでから映画を観る方が面白い)だったとは。今回の抗議デモにも多く見かけたこの「抵抗と匿名の国際的シンボル」であるマスク、みんな別段顔を隠すために使っている訳ではなかった。

「仮面をつければ、権力側による報復や攻撃を恐れることなくデモに参加する事が出来る」のは、昔はヘルメットとタオルだったりもした。「仮面をつければ、権力側による報復や攻撃を恐れることなく、テロ行為ができる」ものに、テロ集団のバラクラバ(目出し帽)がある。既にフランコの圧政下ではない現在のスペインにおいて、ガイ・フォークスの仮面をつけるという行為は、「民衆」という意識の中の「自我」のポーズなのかも知れない。そういえば昔から「怪傑ゾロ」っていうのも、いたっけなぁ。映画の「マスク」「バットマン」、みんな仮面を纏う事で「別な人格」「別な物語」を演出しようとしている。

クリス・ランダースという新聞記者によればー「アノニマスは」 最初のインターネットを基礎にした集団的無意識である。アノニマスは、烏合の衆が集団であるという意味で集団である。その集団をどう認識するかって? 彼らが同じ方向を向いて動いてるからだ。いつでも参加し、離れ、どっかへ行ってしまうー。つまり、何らかのグループに所属することなく、自分と向きが同じだと思ったところにくっ付き、個人としての責任を負うことなく離れ、川がいくつもの支流に別れて行くように、そちらの流れに沿っていく、そしてまた別な流れにくっ付く。それが烏合の衆だとしたら、まぁ、まさしく「民衆」だわよね。



人は誰しも、「民衆」の中に埋没していた方が安全と解ってはいても、アノニマスであることに耐えられなくなっていくものなのかも知れない。2ちゃんねるなどの匿名掲示板でも、むやみに自己主張したがるのが常に出てくるではないか。しかし、自己主張することが存在証明のようなアメリカで、このアノニマス(名無しさん、 匿名の臆病者)という考え方がネット上で受け入れられ広まっていったというのは、大きな意味があるのかも。民衆の善意、そして時には悪意が顔を隠したまま力を帯びるという構造は、極度な異常心理にも繋がりかねない。アラブの春のように民衆の目覚めを後押ししても、確かな指導者のいない烏合の衆のまま国が内乱となり混乱が続くというのは、それはそれで恐怖に近い。こう書いたからと言って、決して専制政治を容認しているのではありませんよ、念のため。

映画のように皆が「集団的無意識」によってガイ・フォークスの仮面を「抵抗と匿名のシンボル」として使う必要があったのとは違い、顔を晒して「NO!」と叫べる今回のような抗議デモで、仮面をつけているのは単なるカッコつけだとしても、その奥には「個人的無意識」による自我の解放という、とんでもない化け物的深層心理が働いているのかも、なんて深読みしたりして愉しんでみる。

そういえば映画の最後のシーンで「匿名のシンボル」である仮面を、烏合の衆たる民衆が脱ぎ、一斉に個としての己の顔を晒していくというシーンは、とても感動的であり、主人公V が仮面を剝されることなく「抵抗のシンボル」として死んでいくという対称性、女主人公イヴィーが最後に語る言葉「私の父であり、兄弟であり、そしてあなたでもあった」Vという共有人格。彼が生み出した「抵抗と匿名のシンボル」の仮面は、その共有人格性を受け継がれていくわけだから、まさしくアナキズムなのではなかろうか。

ちなみにオックスフォード哲学必携では、「全てのアナキストが持つ、単一に定義された立場は存在せず、彼らは、アナキストというものはよくて家族的類似性を持つにすぎないと考えている」と捉えられているそう。かつて労働者による自治が行われたバルセロナは、やはり自由を強固に求めるというアナキズム的傾向が、烏合の衆である我々民衆の家族的類似性となって、今も底流に静かに流れ、反骨の民としての歴史を受け継いでいくのだろう。

日本でも「原発再稼働反対」の抗議デモが行われているというニュースを見た。もう誰もヘルメットもタオルもしておらず、仕事帰りの人や子供連れの母親、学校帰りの高校生などもいて、久方ぶりに見る日本での大型抗議行動に、何となく時代が変わってきたのかなという感慨があった。



さて、私が今も日本に暮らしているとしたら、あそこで私は何をしているだろう。私は誰と繋がっているだろう。一切の虚構なく仮面を纏わずにいるだろうか、あるいは見えぬ仮面を纏って? 映画を観た後に、そんなことを考えさせられた一日。

| るな | 雑記 | 19:41 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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