風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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雨の匂いがする
ひと雨が来た。そのひと雨を境に、新涼という言葉はこれかと思うほどの涼しい風が吹き始めた。朝の気温は13度までに下がり、ひと雨がこれほどまでに季節が変えうるものなのかと驚くばかり。今年の夏はとにかく暑かった。景気低迷の上に山火事の大量発生で、スペイン経済の行く手には暗雲がのし掛かっている。連日TVには山火事の映像が映し出され、紅蓮の炎が松の木から立ち上がっているのを見ると、底知れぬ脅威を覚える。燃え尽きた山は一面の銀灰色で、生命のかけらもない感じだ。その上に容赦なく太陽が照りつけている。地球は滅びて行くんだろうな、としみじみ想ってしまう。タバコの投げ捨て、放火…、結局はすべての生き物にとっての天敵が人間であるように、地球にとっての天敵も人類だという事なのだ。



今年の夏は本当によく働いた。パリから帰ってきてから、ノン・ストップもいいところ。例年になく続いた連日の暑さと、バルセロナ特有の湿度の中、熱中症に怯えながらも、何とか乗り切れそうなところまできた。脳みそまでぼやけそうな中、夏の夜更かしの楽しみであるミステリーを読む暇もなかった。しかも新しい本も届かないし。で、久しぶりに読み返したのが「カドフェル修道士シリーズ」 中世イギリスのカトリック・ベネディクト派修道士のこのシリーズは、謎解きというよりはカドフェル修道士が醸し出す人間模様に面白味がある。手元に新しい本がない時に読み返せるシリーズがあることは、心安い友人に再会した様でほっとするものだ。私のそういうシリーズは、長らく池波正太郎の「剣客商売」「鬼平犯科帳」、それと「源氏物語」の原文といった辺りだったのだが、一昨年「修道士カドフェル」に出会い、どうにか全作を揃え終えてみると、このシリーズも手放せないものになっていた。



これは「Brother Cadfael−修道士カドフェル」という名の薔薇。修道士というには、まるで芍薬か牡丹のような華やぎがある。このシリーズの主人公は12世紀のイングランド、夢を抱き第一次十字軍に従軍、その聖なる夢の醜さに傷つきもし、船乗りとして実世間の裏も表も知り尽くした果てに、ウェールズとの国境にあるシュールズベリにある、ベネディクト派大修道院で修道の誓いを立てた修道士カドフェル。事件そのものの複雑さよりも、歴史物語的な面白さと、実にこの初老のカドフェル修道士の味わいが熟成したワインの芳香のように、心に沁みてくるのだ。こういう風に歳を取り、静かな生活に入るのも悪くないと思ってしまう。何よりもまず捨て去ることが第一歩なのである。

ベネディクト会はカトリック教会最古の修道会で、「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたてた修道士が、修道院において労働と祈りの共同生活を、厳しい規律の下でおくる。フランスのモン・サン・ミッシェルや、バルセロナのモンセラットもベネディクト会で、黒い僧服の修道士が「祈り、かつ働け」という戒律に則った修行を行っている。このシリーズの舞台となっている12世紀は、イギリスは未だ統一されてはおらず、国教会も生まれておらず、カトリック教会は民衆は言うも及ばす、国王に対しても、まだ大きな力を持っていた。この後にイギリスは統一され、カトリックに対する迫害が起きる。ガイ・フォークス事件もその流れの中に起きたわけだ。

このシリーズの中に、貴族の囲い女でありながら、長い年月を心置きない妻のように忠実に男に仕えていた女性が、事件に巻き込まれたと知ると全てを捨てて修道院に入るという、ちょっと魅力的な登場人物が出てくる。シリーズの中でも重要な脇役になる女性だが、面白いのは彼女の場合「神への奉仕、祈り」という修道生活に入るにあたって最も重要な点は後回しだという事だ。修道院というのは俗世から逃げ込む場所、そして才覚があればのし上がれる階級世界でもあったことが解る。彼女にとって修道院というのは自らの才覚を活かす場所だという事になる。

カドフェルは静かな生活を望んで俗世を捨てたが、その人間を読み取るという彼の叡智が、様々な事件を嗅ぎ取り謎を解いていく。必ず若い男女の恋模様が絡んでいるのだが、女性たちがみんな凛々しくも逞しい。英国女性のなんと気概ある事よ、と感心する。青年たちは自らの価値を未だ知らず無防備で、そして娘たちは自らの価値を高めるために奮闘しているのだ。これのTVシリーズがあったそうだが、観てみたいものだ。イギリスの緑あふれる風景は私の憧れ。昔、ベアトリス・ポッターのTVシリーズの田園風景も美しかったが、あの村に行ったら本当にそういう風景がちゃんと残っていて、とても嬉しかった覚えがある。イギリス人の頑固さと謙虚さは、自然を保存する大いなる鍵なのかも知れない。余分なものを持ち込まず、古いものを大切にする、たぶんそれに尽きるのだろう。



イギリスの児童文学が大好きだった私は、「ピーター・ラビット」で具合の悪い時に飲まされるカモミール・ティーってどんな味なんだろう、とか「床下の小人たち」のように小人が自分の家に借り暮らしをしていてくれたら、とか… 同世代の女の子たちと遊んでも愉しくも嬉しくもなかった私は、空想の世界でいろんなことを学んだ。アメリカの児童文学も随分読んだし、「大草原の小さな家」は本もTVシリーズも大好きだったけど、アメリカのはどちらかというと冒険もの的な面が多く、ファンタジーには欠けていたので、やはりイギリスの作家の方が好みに合っていた。ファンタジーとミステリーは、私の中では何処か通じるものがあって、文学の中では軽んじられやすい分野ではあるが、人間を知ること、人間の中の哀しみと希望が垣間見れ、そこが魅力となっている。「指輪物語」のような壮大な物語も個々の登場人物の奥行きがあればこそであり、そして双方共に生きること、生き抜くことを謳っている。ミステリーは殺人事件を扱うが、それは生き抜くことの究極の形として扱われている気がする。



しかし、こんなウサギたちがいる、と思って暮らせば、森を歩くのも愉しい。私は子供の頃、蕗の葉や草むらがカサコソ揺れるたびに、コロボックルがいるかも、と空想して日々を生き伸びていた。擬人化された動物たちや小人、妖精…、空想の世界を構築する重要なアイテムたち。「指輪物語」の壮大な世界でなくとも、あらゆる処に幻想曲は聴こえるものなのだ。我が家のダルたちがウサギを狩りだすたびに、「ピーター・ラビット」や「ウォータシップ・ダウンのウサギたち」に思いを馳せる私としては、イギリス人がウサギを食べない、食べたがらないのも理解できる。

今日は久しぶりの雨。ほぼ3週間ぶりだ。森は乾燥し、草は枯れたままだ。この時期、時折夢のように思い出す風景がある。月明りで見た一面のコスモス畑だ。まだ恋人だった夫とテニスをしに行った折に見た風景だと記憶しているのだが、あれは何処だったのだろう。そういえばとっぷりと暮れた相模の山で見た山桜や、日暮れて雪がちらつく中を下山した那須の山の熊笹の道や、時に甦る懐かしい風景たち。心細さを分かち合うようにして歩いた道というのは、生涯忘れえないものなのかも知れない。コスモスはメキシコ原産で、18世紀にマドリッドに渡ったそうだが、こちらではあまり見かけないのが不思議だ。フランスでは庭に少し見かけたけれど。



大花野に迷い込んでみたい。もう一度、月光の下で。あの青く冴え冴えと澄み渡ったコスモスの大花野こそが、懐かしくも、怖ろしくもある、私の心象風景だ。

| るな | 本の愉しみ | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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