風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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月の照らす場所
ある日は生き急いでみる、そしてまた、とんでもなく怠惰に気怠い気分の日が何日も続く。月観る月のせいだ。ゆったりのんびり月見などしていられる余裕のない身が、この時季無性に空しい存在として感じられるせいだ。犬の散歩に出る早朝、空には煌煌と月が輝いている、これが、いわゆる中秋の名月? あるいは既に十六夜か? このところ月をしみじみと見あげるのは、犬の散歩に出る未だ森も眠りから覚めやらぬ早朝ばかり。早朝という時間帯なのに、深々とした夜の沼から出でし月、という感がある。日本とスペインでは満月感というか、本当に満月だと思える形が、何となく半日ずれている気がする。

私は高校の頃、離れの二階に住んでいて、その大きな窓から見える月は何処までも青みを帯びた光で、誰も起きていない夜の村の、蛙さえ寝静まった時間帯を、日本瓦の屋根屋根を濡れたような月光が照らし出すのをよく眺めていたものだった。最近気が付いたことがある。それは私が日本の街並みが嫌いだという事だ。いや、それは既にヨーロッパの街並みの方が性に会っている、と感じている自分に気が付いた、という事なのだろうか。昔ながらの日本瓦の屋根が続く中に、とんでもなく醜悪にビルが付きだしている風景を、美しいとはとても思えない。私が恋する日本の原風景というべき風景は、もう残っていないのだなぁ。友人が中途半端な田舎にはひっこめない、と言っていたことを思い出す。田舎すら中途半端になってしまったのだなぁ。まこと、故郷は遠くにありて恋うるもの、か。



西洋では月が人間を狂気に引き込むと考えられ、英語の "lunatic"(ルナティック) とは気が狂っていることを表す。また満月の日に人狼は人から狼に変身し、魔女たちは黒ミサを開くと考えられていた。魔女たちの集会を描いたゴヤ。天空には細い月。中世、多くの人が異端審問を受け、拷問され処刑された。必ずしも女性とは限らなかったそうだが、やはり魔女狩りは少しばかりはみ出た女たちを狩りだすことで、女そのものを支配下に置こうとしたカトリック教会の手口である。処女懐胎のまやかしを護るためには、自由奔放な女の存在は危険そのものだったのだ。



ゴヤは油絵よりも、どちらかというと版画の方が面白い。「ロス・カプリチョス」シリーズが好きだ。この「彼女は飛んで行った」という作品、愛人だったアルバ侯爵夫人という説があるが、魔女たちによって飛行する不思議な女。連れ去られたのか、あるいは彼女自身が魔女であり、下級魔女を道具として使い女にしているのか。下降していくとみる説もあるらしいが、私は何処か、より自由に飛翔できる地を求め、男(ゴヤ)を捨て立ち去る侯爵夫人だと考える方が愉しい。男は捨て去るべき存在である。ま、ゴヤも「裸のマハ」「着衣のマハ」を描いたことで、異端審問所に嫌疑を掛けられていたらしいから、自由=異端だった中世においては、十分に悪魔的資質があったといえよう。

いつまでも、ここにいる自分に懐疑的な自分が見える。鏡に映った自分の姿の向こうに見えるものを、探してばかりいるような。己とはなんなのであろうか。そんな事を青臭く思いはせる歳でもないのに、この時候になると、ふとマリオネットの人形のように動きが止まってしまうのは、やはり月観る月のせいなのか。

あれ、あれれ。そんな事を言っているうちに、後の月の頃合いになってしまった。まこと、月は魔性である。
| るな | 雑記 | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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