風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
<< Merry Cristhmas & Happy New Year! | main | 再びの春 >>
立春大吉
今年は年明け早々、聴覚障害者の女性の一人旅に1週間同行するという、ちょっと不思議な仕事をした。バルセロナから始まって、マドリッド、グラナダを回る添乗員&ガイドという仕事。エージェントからの話では、各地の観光は自由観光、という事だったが、ご本人は「あらかじめ時間やコースを決めておくのではないという意味だけ」という事で、つまりはしっかりガイディングを希望。このツアー企画はメールのやり取りだけで企画されていて、本人の状態を把握しきれない、顔の見えない現代商売のやり方の危険性を感じた。要は現場にしわ寄せが来るわけだ。



彼女は全く耳が聞こえないが、口の動きで相手の言っていることが少し読み取れるし、簡単な単語などの発声は出来る。今までに趣味のスキューバー・ダイビングでハワイやらの島に”海外旅行”したことがある、と言うので、初めてヨーロッパを一人旅しようと決めたが、あまりに無茶だというので、誰かつけた方が良いという事になったそうな。実に勇気ある女性だとは思うが、やはりこのヨーロッパで聴覚障害者が一人旅をするというのは、よほど語学が出来て文章を読み解けない限り、非常に困難ではないかと私は思う。
特に、観光客のスリ引ったくりによる被害が大きいこの国で、何かあった時、警察へ行ってどう処理するのだろうか? 病院に行ってどうするのか?彼女の英語力は甚だ頼りないものだし、筆談は日本語でしかできない。かといって翻訳機やタブレットを持って来ている訳でもない。私はこの1週間でノート2冊を筆談で使い切ってしまった。

もうずいぶん前、10年ほど前になろうか、ひょんなことで日本の視覚障害者の為の、ネット配信ラジオ放送のパーソナリティを務めたことがある。月1回、日本から電話が掛かってきて、受話器相手に自分で構成した30分間を話し続けるという、これもまた一風変わったものだった。6か月間、完全なボランティアだったので、仕事とは言えないのかもしれないが、ひと仕事だったという感が残った。
そもそもがスペインの友人の絵画展の企画持込み(視覚障害者のために絵画ごとに、そこに描かれる動物花の彫刻と香水を作って、作品に触れ感じる事が出来るようにという企画)の関わりだったので、ちょっと断りにくい事もあって、それと元来、まぁ、何事も経験か、というノリの軽さから受けてしまったのだが、徐々に要求が大きくなっていくのに驚いた。

スペインにはONCE(スペイン視覚障害者協会)という、宝くじの収益によって障害者の自立を助けるという協会がある。宝くじを売ることによって自立した生活(つまりは精神的にも依存しない)を営み、そして障害者のための学校や様々な施設の整備を自分たちでやろうという考えで、ONCEの宝くじは1枚が1ユーロとかで買い求めやすく、当選金額は大きくはないものの毎日発表があるので、庶民のささやかな楽しみとなっている。世界の視覚障害者協会の中で、最も資金が潤沢なのだそうだ。宝くじ恐るべし。



まぁ、日本の協会としてもいろいろ関心事が多かったのであろうが、私に点字図書館に取材に行ってくれ、学校を訪問して取材してくれ、揚句には誰か視覚障害者を紹介してもらって家庭訪問の取材をしてくれと、何やらどんどんと要求度が増し、ボランティアで取材の交通費は自費、しかも自分の仕事の合間を縫ってやり繰りするには厳しすぎ、もうワンサイクルと言われたときにお断りをしたい旨のメールを送った。

だが、そのメールに対しての返事がないまま、月1回の電話が掛かってきて、収録の後「もう今回でおしまいで結構です。いずれ上の方からご挨拶がありますので」と言われ、打ち切り。その後上からも下からも何の挨拶もなく現在に至っている。私はこのボランティアを通じて、障害者の人たちとの距離感、扱い方の難しさを感じた。私は人の善意に付けいるようなやり口は嫌いだ。また障害や差別というのをかざしてこられるのにも抵抗がある。

今回の仕事も、仕事自体が嫌だったわけではないのだが、何となく割り切れない思いが残ったのは、エージェントにしても「障害者相手に大きな金額をとれない」というのがあって、そのしわ寄せを私が被る事になったのではないかという気がするからだ。一緒に旅行した彼女は一人で働き自活しているし、たぶん自分の暮らしているエリアでは問題なく自立しているのだと思う。だが、一旦その安全圏ともいえるエリアから出てトラブルに巻き込まれてしまった場合、どうするのか。海外で語学力があれば筆談が出来るが、そうでない場合、結局は誰かの助力に頼るしかないのだ。そしてそれは誰かの時間を使うという事なのだ。ボランティアという善意に頼るのか、費用を払って誰かに仕事として受けてもらうのか。その辺りの曖昧な甘えの感覚が、無謀な旅を計画する要因にあるのではないか。

障害があろうとなかろうと、誰かの善意に助けられつつ私たちは生活を営んでいるのだが、人にサービスを頼むことは費用が掛かるものだという事は、基本的に変わらない。曖昧な境界線上だが、仕事として受ける立場である者にとっては、金額に見合うサービスというラインがある。だがそれを超えた場合、果たして個人の善意、ボランティアという事で片付けられるのかどうか。朝食から夕食まで、1メートル以内にいなくてはいけないという状況(注意喚起が音声で出来ない)は、相当に疲れるものだったし、もう一度と言われた場合、やはり考えてしまうだろう、ラジオの仕事同様に。

そこに、「弱者なのだから善意のサービスを受けるのは当然」という意識はないのか。障害者=弱者、保護されるべき立場、と言うだけでは成り立たないものもあると思うのだが。

今回の仕事で感じたのは、人は自分が出している色んな音(咀嚼音や自分の声など)を、自分で聞きつつコントロールしているという事だ。それは他人に不快感を与えないようにという配慮や、人からよく見られたいという気持ちからだったりするのかもしれないが、食事をしながら他人の音がこれほど気になったのは、会話が存在しないからなのかも知れない。障害者から時おり感じる傲慢さをちょっと苦手に感じる事に、妙な反省を強いられるという、いつも感じる堂々巡りもあって、気疲れした正月仕事だった。




そうこう言っているうちに、今日は節分。明日は立春。街にはミモザが咲き、アーモンドも咲き始めた。春である。人は春には不愉快なことなど考えたくないものだ。も少しがんばりましょ。かくして一年がまた始まったのであります。今年もどうぞよろしく。

| るな | 雑記 | 06:58 | comments(0) | trackbacks(0) | -









http://dalks.bosquedesantcugat.com/trackback/1135963
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>

このページの先頭へ