風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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麦青む
静かに春の雨が降っている。今年の聖週間は天候不順だった。もとより何の信仰もない私には、非常にカトリック的なこの行事自体に理解できないことが多いし関心度は低いが、この時期が春休みになるので、子供が学校に行っていた頃は毎年変わるこの日付をチェックしておくのは重要なことだった。イギリス系の学校に行っていたので、ウサギやタマゴを使ったイースターの飾りを作る作業もあったが、スペインではウサギは全く関係がない。タマゴは再生のシンボルだから、こちらでも復活祭の時に食べるお菓子にはゆで玉子が載っているし、近年は玉子型のチョコレートなども多くなった。しかしウサギに関するものは見たことがない。あれはイギリスやドイツなど多産、豊穣を意味するものが交じり合ったものらしい。だからイースターのウサギの扮装などは、こちらでは見かけたことがない。そういえば、プレイボーイのウサギもなんでウサギなんだろうか?



冬に蒔かれた麦が青んできた。こういう風景を見ると、春は何かしら心浮き立つものがある。朝一番の散歩の時間帯には、ウサギが日向で体を温めているのが、数多く見られるようになってきた。我が家のお犬たちにとっても心浮き立つ季節だ。時にはこんな風に狩をしたりもする。ごめんね、ウサさん…




森の奥深くに入ると、不意に廃屋に出会ったりする。それはほんの数年前まで人が住んでいたかの気配があったり、あるいは遠い昔に打ち捨てられ、石の壁をわずかに残しているだけっだったりするが、黙々と木立の中を歩いてきてこういう残骸に出会うと、何かしら胸憑かれるものがある。人が生きていた残骸に蔦が繁茂し、枝を払われなくなった樹が縦横に繁みあい花を咲かせている。花の咲いた空間がひどく明るく感じられるのも、何とはなしにもの哀しい。花は花であるから、咲くことに変わりはないとしても、愛でる人がいないというのはかつて庭木であった樹にとっては、哀しい姿のように想われる。



廃墟というには豪奢なものであればあっただけ、一層衰退という無残な事実を見せつける。私の住む村には、かつて栄華を誇ったカジノ(Casino Rabassada)が存在していた。 20世紀初頭、バルセロナにブルジョアが産まれガウディなど多彩な芸術家が生きた時代だ。そのカタログには「海抜400メートルの緑豊かな自然に囲まれ、ヨーロッパでも類のない施設」と書かれていたそうだ。カジノに隣接するホテル、200人を擁するミュージック・ホール、アトラクション施設、既にジェット・コースター、ウォーター・シュートもあった一大娯楽場。ロンドン、パリ、ニューヨークに匹敵するものを望み、それを可能にしていたバルセロナという街。バルセロナが今やこけそうな弱体スペインから独立しようという気を起こすのも、ムベなるかなという感も。



これはカジノの展望バルコニーだった部分。スペインが軍事政権に代わる1930年に閉鎖され、設備はそのまま残されていたが、スペイン内戦下では爆撃を避ける避難所として、後には反政府主義者たちの牢獄として利用され、内戦終結後の1940年に解体撤去された。森の中に僅かに、その栄華の残り香が窺える。



栄華というのは美しいものだ。いずれは跡形もなく消えるものであるが故の、うたかたの夢だ。廃墟にはそんな蜃気楼のように掴み処のない、人を遠くへと誘う不思議な魔力がある。独りでこんな廃墟を歩いていると、鳥の羽ばたきですら空恐ろしいものに感じられたりもするが、そんな時に天狗を思い浮かべるのは、やはり私は日本人なのかしらん、と可笑しくもある。



カジノのバルコニーを飾るジョーカーの彫刻。不敵な微笑みに見えるから不思議。

そして不意に、私は人に会いたくなる。人を恋うというのは、春の愁いを含んだ感情なのかも知れない。そして不意に逢いたくなる人がいるというのも、やがては消える蜃気楼のようなものなのかも。この廃墟のように老いた時にも、私はこのジョーカーのように微笑んでいられるだろうか。



| るな | 雑記 | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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