風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
<< 春嵐 | main | 盆の月 >>
てふてふ
今日は早朝の仕事のため、散歩が少し遅めになった。お犬は待ちきれなかったようで私が帰ると焦れていたが、少し汗ばむような気候の中を時間に追われず歩くのは本当に心がほぐれる。私はもう何年も時間に追われた生活をしてきたなぁ、としみじみ思ってしまう。昨日は息子が修論の発表を無事に終え、これで私は何と言うか、枷が外れた気がするのだなぁ。子育ては長い。



散歩をしていて、本当に久しぶりに蝶の飛ぶ姿を見た。シジミ蝶だ。スペインは蝶が極端に少ない国だというのが、私の長年の感想。とにかく昆虫がいない。蝶も蜻蛉も、甲虫も蝉もいない。いわゆる、夏と直結している虫が身近にいない。無論ピレネーなどの山に行けば少しは見かけるが、私が住んでいるのは森の近くだし、日本ならこのくらい近くに山があれば蜻蛉や蝉などは日常的に見かけるものだと思うのだが。もっとも最近は蝉の声が以前に増して身近に聞こえるようになってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう、以前はピレネーの山や海辺の松林でしか聞いた覚えがなかったが、ここ数年前から私の住んでいるマンションの庭でも鳴いている。しかし一度もその姿を見たことがないし、蝉の抜け殻もない。いったいどうしてなのだろう。スペインの子供たちは昆虫などんぞとはまるで無関係な夏を過ごしている。

春になると思いだすのは、てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていつた、という安西冬衛の一行詩だ。何故かこれは俳句の自由律だと、ずっと思い込んでいた。分け入っても分け入っても青い山、とか、うしろすがたのしぐれていくか、のような。正直、自由律の俳句と一行詩の違いは私の中では大変に曖昧で、自由律の俳句を認めないという立場の人からすれば、みんな一行詩なのだろう。ま、くくり方なんて何でも構わないように思うのだが。この安西の詩はおそらく中学の学校の教科書に載っていたものだったかと思う。この春という一行詩に出会ってから「てふてふ」というと、私には海をひとり渡っていく魂のようなアゲハチョウの姿が浮かんでしまうのだ。甘蘭畑に無数に飛ぶモンシロチョウという、実際にあの頃何処でも見られた景色ではなく、見たことのない韃靼海峡を飛ぶ蝶。それは憧れと同意語のようなものだった。憧れほど危険なものはないと識ることになったのは、もっと後になってからだけれど。



ここにおちつき草萌ゆる これは種田山頭火の句。両極にある憧れに身を裂かれるような、そんな生き方しかできなかった男の寂しさ。久女は「足袋つぐやノラにもなれず教師妻」と言いのけてしまったが、これは女の哀しさという事になろうか。私たちはいつも何かの判断を迫られている。歳を負うごとに決断が遅くなってしまうのは、おそらく責任の所在に怯えるからなのだろう。

もうすぐスペインの春は終わり、本格的な夏に入る。池波正太郎の剣客商売の中で、大先生が「夏の暑さが堪える歳になってきた」というようなことを呟いていたと思うのだが、だんだん実感として理解できるようになってきた。あの暑さの中を仕事をするかと思うと、もう既にウンザリした気分がしてくる。かつて私は夏を愛していた。あの若狭の夏の青い空と海を、何の屈託もなく愛していた時があったのだ。まったく、生きるという事は屈託が増える事なのだろうなぁ。

| るな | 雑記 | 10:57 | comments(0) | trackbacks(0) | -









http://dalks.bosquedesantcugat.com/trackback/1135967
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< April 2019 >>

このページの先頭へ