風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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久し振りに日本に帰国して、何やら不可思議な時間の過ごし方をしたせいか、帰って来てから自分の中にちょっとした虚(うろ)が出来たような、妙な感覚がある。恐らく、いつもの事ではあるが、帰国直前までがとんでもなく忙しく、あらゆる物事にケリをつけまくるという濃密な時間の送り方をして、さて帰国したとなると茫漠とした時間が冬の靄のように漂ってしまうせいだろうか。今回の帰国直前も片づけて行かなくてはいけない案件を、律儀に新婚旅行の土産のようにひとつずつ済ませて行くという、とにかく日にちの限られた中で納めきらなくてはいけない訳で、とりあえず飛行機に乗った時は頭が絞り切られた感じであった、いつもながら。



「他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである」と、寺山修二は言った。思い出とは何かと、そろそろほころび始めた アーモンドの花を見ながらふと考える。私という人間が死んだら、誰かの中に思い出として残るのだろうか。結局のところそれが血族という事の、本当の意味な のかもしれない。

私の田舎の寺に行くと、百周忌の人の名が掛かっている。私の高祖母が今年百周忌で忌明けになるらしい。都会では十三回忌か十七回忌でお終いのような感覚だが、人の忘れられていく速さは、その人の生きていた土地の時空に比例するものなのだろうか。座敷に掲げられた高祖父母からの写真を見ていると、自分の血族というものを意識する。昔、山口瞳の「血族」という小説を読んで感じた、少し慄然たる思い。血族とは「本来は血の繋がりのあるもの、すなわち血縁者である」そうだ。配偶者は家族ではあるが、血族ではないのだ。

自分の中に流れている血の系譜を知りたいという感覚は、自己認識のひとつの方法なのだろう。私も十代にそういう事を考えたことがある。自分は何処から来ているのかを考えると、宇宙の成り立ちに思いを馳せて目を回すような、底なしの沼に吸い込まれそうに感じた、少しばかり哀しい感性だ。それからずいぶん経って、池波正太郎の鬼平の中で、男は過去を振り返り、女は今しか考えない、という様なくだりがあって、ほほぅ、と思ったものだ。命を、血を繋ぐことで女は今が精一杯、手一杯で、綺麗事の過去を振り返るのは最後の最後でいいのかもしれない。昔話でお茶を飲むなんて、たぶん私には退屈すぎる。過去は忘れるもの、今を生きる糧とするものであればよい。

もう誰も知らぬ我が高祖母の百回忌は、血族の中で明るく語られ、そして連綿と続く流れの中に消えて行く。死が明るく語らるというのは、実にいいものだ。生を全うして生きた人への餞だ。私の租父母の百回忌を語るのは、私の曾孫の世代だ。それが血族の記憶だとしたら、私の中だけで消えて行く記憶、人との記憶がある。過去というほどの重たいものではなく、誰に伝わるでも伝えるでもなく、私の中だけで生まれ、あぶくの様に消えて行く、無数の人との記憶。生きているうちにもう一度会いたいと、もう一度ささやかな思いを伝えたいと思う人がいることは、それ自体が幸せな事なのかもしれない。生きるという事は記憶の積み重ねなのだとしたら、私が死ねば閉じる記憶が無数にあるという事だ。私は今日も、一つの記憶を重ねる。今日の新しい記憶と、すり硝子の向こうにほのかに透けて見えるかのような、どこか懐かしい記憶を私は無数に抱いて、光の扉の向こうに行くように死ぬのだとしたら、それは一つの恩寵のように思える。だって、あなたも私もいつ死ぬかわからないもの。

だから、逢いたい人には会っておこう。伝えたい一言を、今伝えておこう。人は、明日という日には消滅してしまうかもしれない存在なのだから。ものすべてに復活の兆しが見受けられる春は、もう還らぬものがあるという認識の下で、静かな哀しみを増幅する。そうです、今の私に会えるのは今だけです。
| るな | 雑記 | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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