風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
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風の影を探して (Català-Rocaと共に)
先日、仕事で一緒になった人から、午後の自由時間に「忘れられた本の墓場」があるという通りに行ってみたい、と不意に言われた。Arc del teatre(原文ではスペイン語でArco del teatro)、ランブラス通りに面して、暗い洞窟への入り口の様な石造りのアーチがある。そこがArc del teatre通りへの入り口だ。絶妙な場所を選んだものだ、とつくづく思う。



初めてバルセロナに来た1986年の秋、私はこの通りのすぐ近くにある公立語学学校に通い始めた。7カ月の身重だった。朝早くから、ランブラス通りには娼婦たちが立っていた。中にピンクのバレエのチュチュを着た、ボテロの絵から抜け出してきたような、飽満を通り越した巨躯の娼婦がいた。膝から下がその上半身の巨大さに比して、驚くほどに華奢な感じがした。自分が今、このバルセロナという街にいる不思議、一人の男とここにたどり着いたという不思議、そんな不可思議な人生の謎を抱えながら、私は毎朝、同じ生きるという土俵にいる彼女たちを見ていた。誰もが忘れがちな、そんな普通の感情。私はカトリック教徒ではないから神という概念は解らないが、もし神が我々に唯一何かを与え得るならば、誰もが同じ人間であるということを感じられる感性であるべきだと、ひそかに思ってしまう。



「世界がこんなにみじめなところでも、見物するだけの価値があるのは、彼女みたいな人たちがいるからだよ」「娼婦たち?」「いや。それを言ったら、我々はみんな、しょせん、娼婦みたいなもんですからね。私が言いたかったのはね、善良な心を持った人たちのことですよ」このフェルミンとダニエルの会話で、私はあの時代のバルセロナをまざまざと思いだしたのだ。ピンクのチュチュを着た豊穣な娼婦と、この世界にもう一人の迷える子羊を生み出そうとしている私が、同じランブラス通りの朝の光の中で、あの清々しい秋の空気の中で、今日の一歩を踏み出そうとしていたのを。



サフォンの「風の影」については、もう既にいろんな書評もあるだろうから、物語への感想は差し控えておくが、このロマン小説に描かれたバルセロナという街に魅かれた人には、まさにこの時代を撮り続けたCatalà-Rocaの写真集をお薦めしたい。何年か前にガウディのペドレラ(カサ・ミラ)で開かれた彼の写真展で、私はすっかりこの人の持つ抒情性に魅了された。「風の影」のスペイン版の表紙に使用されたこの写真も、無論 Català-Rocaのものだ。最初、スペイン語版を読もうとしたら、そのあまりの分厚さ、重さにたじろいでしまったのだが、この表紙自体が語り掛けてくる世界観は捨てがたかった。しかし、スペインの本というのはどうしてあんなに重いのだろうか。紙の質もさることながら(「舟を編む」に出てくるような、情熱的な紙屋さんはいないものかしらね)、まことアルファベットというのは場所を取る。通勤中に読みたいが、その後仕事中も持ち歩かなくてはいけないと思うと、どうにも買いづらい重さ、大きさだ。



サフォンの描く迷宮のようなバルセロナ。「人の肌にしみこんで、気づかないうちに魂を奪う」魔性の街バルセロナ。あの内戦終結後の暗い恐怖に囚われていた民衆の、今も残る深い哀しみ。「言葉より残酷な牢獄がある」ことを知らない私は、まだ幸せなのだろう。今もなお暗い中世の街並みの残る旧市街の夜を、焦燥と孤独(これは同じものなのかもしれないが)に突き動かされて、主人公が歩き回った街路。そしてこの時代にあぶくの様に生まれて、やがて消えて行ったブルジョアたち。ディアゴナル通りを超えると、世界は大きく違っていた。



これらの寫眞は1953年に出版されたもの。物語と同時代だ。産業革命(繊維工業)で財を成した新興ブルジョア勢力が、競ってモデルニズモ様式の華美な屋敷を立てたのが、今なお青い路面電車が通りを走るティビダボ通りだ。ペネロペの眠る屋敷はガウディの弟子のひとりルビオが設計した、Casa Roviralta(El Frare Blanc 白い修道士)がモデルだというが、今はレストランになっているあの明るい空間からは、陰惨なゴシック物語は想像しがたい。いずれもが没落の過程を辿って行ったにせよ、彼ら新興ブルジョアたちはまだ護られていたのだ。同じ時代、多くの人がフランコ軍に連れ去られ、モンジュイックの丘の要塞で銃殺刑に処された。そこにこそより多くの恐怖が、言葉より残酷な牢獄が存在したのだ。およそ4000人もが銃殺され、そのまま放り投げるように埋葬されたモンジュイックの丘の墓地。何処に埋められているのか認定できないため、ここに眠っていると感じる場所に家族は花を捧げるのだと、昔聞いた覚えがある。バルセロナ・オリンピックによってメイン会場となったモンジュイックの丘の、重く凄惨な過去も今は風化しつつある。だが、語り継ぐ言葉を紡ぐことも出来ないほどの、残酷な牢獄に囚われている人たちが、今もいる。繰り返される内戦、処刑シーンの映像、自爆テロの被害者たち、毎日TVに映し出される終わりのない憎しみの連鎖。



六月の明るいバルセロナの陽光の中で、ふとかすかな影が私の頭上を横ぎっていく。太陽と私との間に浮かんだ小さな雲なのか、大空を飛ぶ鳥なのか。あるいは、誰かの声を乗せて私の中の何かを呼び覚まそうと、静かにやって来た風なのか。風に影があるとすれば、それははかない吐息の形をして私の中を透き通ったまま通り過ぎていく、青鈍色に澄んだ瞳の少女のかたちをしているような気がする。

余韻を残す物語を読む喜びは、こんなところにある。この一冊との出会いで、あなたはバルセロナという魔性の街に囚われるかもしれない。そして、囚われの身の歓喜に打ち震えるかもしれない。そんなあなたを微笑みを浮かべて待っている人たちがいるかもしれない。誰かが私たちのことを覚えている限り、私たちは生き続ける、のだから。恐らく、記憶は恩寵であるのだろう。

 
| るな | バルセロナという街 | 03:48 | comments(0) | trackbacks(0) | -









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