風の色、海の色、バルセロナ色

バルセロナからの気ままな風。
<< 風の影を探して (Català-Rocaと共に) | main | 立春大吉 >>
Shall we ダンシャリ?
流行語に疎いので知らなかったのだが、断捨離という言葉を、最近よく耳にする。不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のことだそうで、断=入ってくる要らない物を断つ、捨=家にずっとある要らない物を捨てる、離=物への執着から離れる、というヨガの行法の応用だと、Wikipediaには書いてある。初めて音として聞いた時には、ずいぶん強い響きにどきりとした。単なる整理整頓とは違うらしい。



ある日突然、森の中に出現した古びた籐椅子。毎日のように通る犬の散歩コースの、危うい傾斜を持つ位置に置き去りにされていた。むろん車の入れない森の中、一体誰がどんな思いでここまで運んできたのだろう。誰かを待つ椅子なのだろうか? 誰かがこの椅子から立ち上がり、そして何処かへと立ち去ったその後姿を、この椅子は記憶しているのだろうか? 妄想しつつ、横目に見つつ過ごした何日か後、出現したと同じ不可思議さで、椅子は森から消えていた。もう誰を待つことも無い世界に旅立ってしまったのだろうか。

姑が亡くなった時、家の後片付けをすることになった。彼女が病院に入院したときのまま、すべてのモノが放置された状態だったので、ただひたすらモノをゴミとして片付けなくてはならなかった。家族写真も昔の恋文も、趣味の陶芸やら絵も所詮他人にすればゴミである。素人の作品などゴミでしかないし、相当の金が掛かったに違いない茶道師範の看板も、当人がいなくては何の価値もない。毎日朝から晩まで、整理整頓ではない「捨」の作業をしているうちに、モノに対する感覚がどんどん麻痺していき、あらゆるものがゴミとしか感じ取れなくなってしまった。そして次第に腹が立ってきた。ゴミ掃除をさせられた事よりも、己の身仕舞いが出来なかった姑に対してである。モノをゴミとして処理させることを強要された思いが、強迫観念の様に迫ってきたのだ。



二十歳そこそこの頃、私が所有しているモノはとても少なかった。僅かな衣服と本、そのくらいだった。ある意味引っ越し魔でもあった私は、家移りの度にモノを処分していくのが心地よかった。一定量のモノしか持たないことが、家移りの目安でもあった。ラジオ好きだったのでテレビを持っていない時期もあったりして、部屋を見渡したNHK集金の人に、ほんとに持ってないんですねぇ、と感心されたり、なぜかテレビを持たないことを困窮と考える人たちから、テレビをプレゼントされたりもした。人は一体いつの時点から、モノを持つことが豊かさの極みのように思うようになるのだろうか。モノのない飢餓感は何に兆すのだろうか? 鞄一つで旅立てるような、そんなあり方を潔しとしていた私に、何が起きたのだろうか?

今、私はモノに囲まれた暮らしをしている。ひとつの家に二十年ほどの年月暮らし続けるという事は、こういう事なのだろうか。増え続ける書物、衣服(ちなみ に私には着ぼくろあり)。しかも私の実家には日本にいた頃のモノが定置網に引っかかった魚の様に蔵に溢れ返っている。母が健在なので今しばらくは私のモノたちも安泰だが、や がては母のモノの後片付けをする日も来るだろう。そして今、はたと考える。私のモノを片付けるのは、私の息子? もしくはその連れ合い? と、考えると、い やいや、これはちょっとばかしこっぱずかしいモノの山ではないか。



そこで少しばかり「断」に気合を入れる事にしようかと思う。歳をとってくると本当に必要なものは、実はそんなに多くないことに気付く。仕事をしていれば洋服だの小物だの不可欠なものがあるが、仕事 もいつかは終わる。自分の仕事の終わり時を自分で決められるのは自由業の良いところでもあり、思いがけぬ落とし穴でもあるように思う。いつまでもモノを断つことが出来ないまま、捨てることもかなわない、そんな未来が簡単に思い描けるのが怖い。だが、まず「断捨」ありきなのか? まず「離」ではないのか? モノへの執着を断つという事はある種の非情さを意味する。思い出の品を整理していくには、自分の過去への思い切りという非情さを伴うからだ。モノをあくまでもモノとして見る覚悟がいる。

バルセロナにフレデリック・マレス博物館というのがある。ひとりの人間が収集したコレクションの数々。コレクターとはこういうのを言うのかと思わせる、博物学というのとは少し違う、モノへの集中力と言おうか、執着心と言おうか。部屋から部屋へと廻るうちに、少し息苦しいような圧迫感を感じる。私自身はコレクターの資質はあまり持ち合わせていないと思うのだが、切手収集という類ともまた違う、あまりに雑多すぎるモノの集め方は、溢れるモノに囲まれていないと落ち着かない性癖のようなものを感じて、何だか暑苦しい。それは、いろんな色が混じり合いすぎている感じに近い。モノへの執着を断つというのは、色を絞って行く事に近いのかもしれない。



ちょっとばかり、色のない世界に行ってみる。そして、しばらくそこで浮遊する。白黒撮影ではないのに、このモノトーン的世界。そこでふと見つけた南天の赤い実のハッとする美しさ。そんな感じが、私の目指すところに近いのだが、そこに行こうと思えばまず、執着を断ち切らなければならないとすると…、いやはや、それは難しい。大体女がモノへの執着心を失くしたら、それはそれで寂しいようにも思うし。

そんなこんなで私の「断捨離」は遅々として進まない。取りあえず、今まで時間の合間合間に、何とか止めることなく繋げてきたタペストリー展をしようかと思う。個展が開けるほどの品数もないので、水彩画を描いている友人との二人展だ。画廊だから値段を付けることになるのだろうが、タペストリーなんぞ買う人がいるとも思えない。しかしそういう形で区切りを付け、気に入ってくれた人が自分の空間を飾ってくれればいいなと思っている。自分の作品を手放すことが出来るのも、一つの悦びなのかもしれない。

山は登って下りて、初めて「山に登った」と言えるのだそうだ。登ったまま下りれずにいるのを「遭難者」と呼ぶのだとも。山を下りることを考える年代になってきたのだが、私にとってのタペストリーは、山を下りるための杖なのだろうと思う。結局、ここに戻ってきたという思いがある。

来たる2015年が、美しい年でありますように。

 
| るな | 雑記 | 01:18 | comments(0) | trackbacks(0) | -









http://dalks.bosquedesantcugat.com/trackback/1135981
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>

このページの先頭へ